ウパニシャッド哲学的な彼女、海老入りKAGERO風
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 01

 木枯らしが吹きすさぶビルの谷間を、長身痩躯の中年男が一人、色あせたコートの襟に顔を埋め、重い足取りで歩いていた。余程、疲れが溜まっているのだろう。男の表情は冴えない。時折、足が止まる。その度に男は、溜め息を吐いて空を見上げた。輝く太陽を、暖かな日差しを、男は探し求めていたのだ。しかしビルの間には、重苦しい曇天があるだけだった。どんよりとした雲から顔を背け、再び溜め息を吐いて俯き、また歩き出す。その繰り返しだった。
 時刻はちょうど昼食時で、背広を着たサラリーマンや制服姿のOLたちが街を闊歩していた。忙しそうに歩く人々の中にあって、男は単なる路傍の石と化している。勤め人たちの視界には間違いなく入っているのだ。しかし、華麗にスルーされる自由人。それをアンタッチャブルの存在と言い換えても構わない。分かりやすく言えば、ホームレス――彼の持つ唯一の肩書きが、それだった。
 やがて男はビル街を抜けた。シャッターの閉まった店だらけの商店街を通り過ぎ、倉庫が立ち並ぶ運河沿いの道路へ入る。その途端、運河へ垂れ流される汚水の激臭が鼻の奥に突き刺さった。誰もが顔をしかめる臭いだ。しかし男はさほど気にする様子はなかった。
 自分自身が匂うから、というだけではない。最初は臭いと感じる。慣れれば気にならない。それだけの話に過ぎないのだ。たかが悪臭の如きに尻込みして、食い物にありつくチャンスを逃すのは馬鹿げている、と彼は思う。
 男が向かう先は、日々の食事代にも事欠く困窮者たちに無料で昼食を配給するホームレス・シェルターだった。使っていない空き倉庫を慈善団体が借りて、ボランティアで運営しているのだ。
 男は、その常連だった。渡り鳥の一種であるホームレスは、寒い時期には南へ向かうのだ。その中にあってこの街に残るのは、体調の悪い人間か習慣に固執する変わり者ぐらいだ。
 おそらく男は後者に属するのだろう。毎日の昼食、というか、一日でただ一度のまともな食事は、いつもシェルターで摂ると決まっている。食べる場所も決まっていた。倉庫の隅に立ち、壁に向かって、独りで食べるのだ。他の連中はパイプ椅子に座って食べる。決して話しかけては来ない。谷啓と同じくらいのシャイな彼は、人前で食事をすることが大の苦手だと知っているからだ。
 自らを透明な檻に閉じ込めていると解釈することも可能である。あるいは、常連である彼にだけ許された特権のようなものだったのかもしれない。
 とはいえ、常連になるまでの葛藤は、彼の中にも確かにあった。最初、施しを貰うことに恥ずかしさを感じた。何度も訪れてしまう自分に腹が立った。社会的弱者に落ちぶれてしまった事実を認めたくないがゆえに、もう二度と来ないと宣言したこともあった。それでもボランティアの人たちは優しかった。「来たくなったら、いつでもおいで」と彼らは言ってくれたのだった。仕事も貯金も無く、頼れる人間もいない男にとって、その言葉は本当に嬉しかった。
 ひもじさに耐えかねてシェルターを再訪した彼に、ボランティアたちは以前と同じ真心をもって接した。おにぎり二個と沢庵の漬物二切れ。配られる昼食はそれだけだったが、残飯を漁る以外に食べるものが無い男にとっては、愛情のこもったゴージャスなメニューと言って差し支えない。
 慣れれば気にならないのだ、何事も――と、男は思う。
 目当ての場所が見えてきた。赤錆の浮かんだ鉄扉の前で、先客たちが既に並んでいる。ハローワークの受付前で並ぶことに疲れ果て、開店前のパチンコ屋に並んで一攫千金を目論むための元手は微塵も無く、世界恐慌の記録と並ぶ長期不況に悶え苦しむ、何処にでもいる並みの人々すなわち彼と同類、普通のホームレスたちだ。
 シェルターの入っている倉庫の鉄扉が開かれるのを大人しく待つ同胞たちの元へ早く着こうと男が足を速めた、そのときだった。行列の向こうに一台のパトカーが現れた。パトカーは運河沿いの狭い道路をゆっくりした速度で進み、食事の配給を待つホームレスたちの傍に停車した。警官が一名、警棒を片手にパトカーから降りた。怯えの色を滲ませたホームレスたちに黒い警棒をたっぷり拝ませてから、何事か話しかけている。それを見て、男は路地に隠れた。空きっ腹を抱えたまま、倉庫街を歩み去る。
 何かの事件に関する聞き込み捜査なのか、浮浪者に嫌がらせをして暇を潰そうというだけなのか……警官の意図が何処にあるのか、男は分からなかった。いつもと同じ嫌がらせなのは、ほぼ間違いない。確かな容疑があろうがなかろうが、事件があればホームレスをしょっ引くのが警官という生き物なのだ。取調室で気が済むまで怒鳴り散らし、ストレスを解消でもさせないと、到底やりきれない仕事なのだろう。
 いずれにせよ、警察と関わり合いになるとろくなことにならないのは、この世の真理。それに男は、脛に傷を持つ身の上だった。面倒な事態は避けるべし。彼の持っている人生哲学はそれだけだったが、生き延びるには十分、役立っている。

 02

 廃墟と化したデパートに忍び込んで遊ぼうとした若者たちの仕業だろう。非常階段を閉鎖する格子扉の錠前は、男が初めて来た時にはもう壊されていた。ビルの所有者は、ごつい南京錠と太いチェーンで鉄製の格子扉を枠にくくりつけるという応急処置を施していたが、どうやら無駄に終わったらしい。バールのようなものか鉄パイプ、それと憎悪がまぜこぜになったものが炸裂して、鎖を引き千切ったようである。ついでに枠が歪み、格子扉はわずかな隙間を残して動かなくなっていた。
 人一人が通り抜けるのがやっとの狭さだが、元々細身である上に否応無しのダイエットを日々せざるを得ない男にとっては問題にならない。周囲を窺いながら格子扉をすり抜ける。三方をビルで囲まれた路地裏に人影は無かった。空き缶やペットボトルそれと古新聞、古雑誌に粗大ごみといった塵芥がぶちまけられているだけだ。そのとき足元で、がちゃりと音が鳴った。男の表情が一瞬、凍りつく。落ちたままになっていたチェーンを踏んでしまったのだ。男はそれに気付き、苦笑いを浮かべた。
 疑心暗鬼に陥っていると彼自身、自覚している。それでも、ホームレスたちに警棒を見せ付けていた警官の姿が頭にこびりついて離れない。警察に見張られているのではないか、という妄想じみた不安が彼を必要以上に警戒させていた。
 彼は首を振った。愚かしいことだった。警察に追われたのは昔の話だ。過去の記録はすべて消去済みであり、今の自分はただのホームレスに過ぎないのだ。怯える必要は無い。まったくもって失笑ものだと思いつつ、眼下に注意を払うことは忘れない。彼は足音を立てずに非常階段を上がっていった。非常階段を囲む落下防止の鉄格子越しに街を眺める。階が上がるにつれて視界が広がっていく。気分が晴れ晴れとしてきた。もっとも、見えるのはくすんだ空と墓標みたいなビルだけだ。それ自体は、ありがたくも何ともない。理由は別にある。地表から体が離れれば離れるほど、どういうわけなのか彼は心が弾むのである。そのとき独りであれば、なおのこと良い。形而上学的な存在との対話に、余人は邪魔でしかないのだ――そんなものがあるとしての話だが。
 廃業したデパートの屋上へ向かったのは要するに、高いところで独りになって嫌な気分をすっきりさせたい、ただそれだけのためだった。だから彼は、ガラクタの並んだ屋上遊園地に人影を見たとき、正直に言うと失望した。
 十代の中頃ぐらいだろうか……整った顔立ちに幼さを残した少女が一人、新幹線をかたどった電動遊具の座席に膝を抱えて座っていた。もはや動かない遊具に座る少女には、寂しげな風情が漂っている。男は気まずさを感じた。地上へ引き返そうと非常階段を戻りかけた彼の背中に、少女の甲高い叫びが待ったをかけた。
「追われているの、助けてちょうだい!」
 やむなく男は振り返った。黒いダウンジャケットを着た少女が長い黒髪を振り乱して駆け寄ってくる。土台から外れて横倒しになっている遊具のポニーに足を引っ掛けて、転ぶ。立ち上がってジーンズの汚れを払う。シューズの底でポニーを蹴る。金属製のポニーがコンクリートの床を滑り、メリーゴーランドの柱に当たって止まった。少女は白い歯を見せて笑う。綺麗なのだがなぜか、歪んだ笑いに見えなくもない。何処かで見覚えがあるように思えるが、最近の話ではなさそうだ。
「追われているにしては余裕だな」
 思いのほか嫌味な口調になってしまい、男は後悔した。少女は気にしていない様子だった。長身の男を見上げ、屈託の無い笑顔で答える。
「あなたのおかげで余裕が生まれたのよ。私って運がいいって実感しちゃった。どうしていいかわからなくて困っていたけど、本当に助かったわ。あなたの力を借りれば勝てる。何しろ相手の体は異常に丈夫だから。フルメタル・ジャケットだって弾かれるんだもん」
 男には、話がまったく見えてこない。
「いろいろ言ってるけどさ、君って何者? 追われてるって、誰に? 何よりもね、僕にどんな関わりが」
 話し終える前に少女が言った。
「手短に説明するね。私の名前はアカネ、悪い奴に追われているの。このビルに追い詰められて、反撃しようにも糸口が見いだせなくて、どうしようって悩んでいたら手駒に使えそうな奴が現れたのよ。ダサい中年男なんだけどね」
「悪いが帰らせてもらう」
 非常階段に向かって歩き出した中年男のコートを、少女は指先でつかんだ。
「手を貸してくれたら報酬を払うわ。私は子供だけど、凄いお金持ちだから、全額キャッシュで大丈夫。おっさん、二千万で、どう!」
「おっさんはやめてくれ」
「かわいい妹の頼みを、どうか聞いてちょうだいよ、お兄ちゃん!」
「お兄ちゃんもよしてくれ」
 一張羅のコートを破られないよう、男はゆっくり振り向いた。
「僕の名前はキョウヤ。二千万はともかくとして、事情をきちんと説明してもらえないかな」
 アカネという名の少女は、中年男のキョウヤにタメ口で話し始めた。
「キョウヤ、つまりね、事態は最悪なの。もう本当に大変なんだから。マジな話、死人も出てるわ。セカイ系って言うの? エヴァみたいなSFの要素があるわね、部分的に。それとオカルト。適当なんだけど、オカルトなんて元々そんなもんだし、目を瞑ってもらうわ。ところどころに哲学もどきの戯言をほざいているのもポイントね。そうそう、忘れていけないのは、萌え。これが無いとね、駄目なのよ。それとラブコメ&ロマンス。ついでに、空気系もあるわ、あくまで空気としてだけど」
 キョウヤは尋ねた。
「それどんなラノベ?」
 ぷんすかと憤慨して、アカネが口を尖らせる。
「ラノベでもマンガでもアニメでもないの! 非実在じゃないわ、これは現実の話なの! シンタローが聞いたらね、びっくりしてドモりまくるのは必定よ」
 キョウヤは少女を見下ろし、厳しい声で語りかけた。
「お嬢さん、いいかげんに」「いいかげんしてもらいてーな。鬼ごっこもかくれんぼも、こっちはウンザリなんすよッ!」
 不機嫌を露にした声の聞こえる方へ顔を向け、キョウヤは大いに驚いた。屋上を囲うフェンスの向こうに、坊主頭の青年が宙に浮かんで立っていた。年は二十代の半ばぐらいだろう。逞しい体つきの若者で、黒のスーツに金のアクセサリーがバッチリ決まっている。顔立ちも悪くない。イケメンというには少々ごついが、歌舞伎の荒事にはピッタリの面構えだ。
 それはさておき、空中を浮遊するとは、これ如何に?
「そこの君、どんなトリックなのかは知らないけど、そんなところにいるのは危険だ。落ちたら一巻の終わりだよ、早くこっちに来たまえ」
 キョウヤの注意を青年は無視した。
「アカネお嬢さん、逃げ回るのはもう止めてもらいてーんですよ。大人しく家に戻っていただきましょうかねッ!」
 アカネが冷たく言い返す。
「嫌よ、私は絶対に戻らないから」
 青年の顔に禍々しい怒りが滲み出た。
「俺を怒らせないで下さいませんかねッ! ケンカ最強って呼ばれてんのは、伊達じゃねーすよ」
「原付を転がすことと空中浮遊しか能の無いチンピラ風情が、粋がってんじゃないわよ!」
 髪が長かったら怒髪天状態と思われる形相で、青年は言った。
「てこずらせるようなら容赦するなって、スギヤマ会長の許可は頂いてますんでね、ちょっとだけ痛い目に遭ってもらいますぜッ!」
 青年はフェンスを越えて迫ってきた。原付に乗っているわけではないので、それほど速くない。ダッシュで逃げようと思えば、出来なくもないかな? そんな観測が成り立つ程度の速度だ。もっとも、アクセル全開だとどうなるか、キョウヤにはさっぱり予測がつかない。予想できるのは唯一つ、青年と肉弾戦になったら自分に勝ち目は無いということだけだ。三十六計逃げるに如かずの状況なのだが――少女を置いて逃げるわけにもいかない!
 その一方、アカネはファイト満々で待ち構えていた。どんな自信があるのか、口元に余裕が漂っている。やがて彼女は妖艶に笑った。
「見せ付けてあげるわ、リエン。インド数学がもたらす神秘の能力をね!」
 アカネは傍らに突っ立っているキョウヤの片腕をむんずとつかんだ。痩せているとはいえども大の男の体を頭上に掲げ、ぐるんぐるんと勢いよく回し始める。やがて彼女自身も回りだした。三回転半で高々とジャンプし、細いウエストにグッと捻りを加えてから、キョウヤの体を力いっぱい放り投げる。
 ケンカ最強を自称するだけのことはあった。浮遊する青年リエンはキョウヤが飛んでくることを予想していた。優れた動体視力を持つ彼は、くの字の姿勢で高速回転するキョウヤを難なくかわし、五十メートルを五秒台で移動する浮遊能力でアカネに急接近した。
「お嬢さん、覚悟!」
 乱れた髪を整えながら、アカネは言った。
「リエン、後ろをご覧」
 慌てて振り向いたリエンの顔をキョウヤの頭が直撃した。くの字になって回転するキョウヤは人間ブーメランとなり、空中で弧を描いて元の場所へ戻ったのである。その軌道上にいるリエンへ命中するのは、ゼロの概念を生み出したインド数学を用いなくとも、何となく理解できるであろう。それはともかく激突した両者にとって、痛恨の一撃だったのは言うまでもない。顔面を血みどろにしてリエンが昏倒した。キョウヤは頭を強打した。それでも意識は失わなかった。非常階段を下りながら、その違いをもたらした原因についてアカネが講釈を垂れた。
「体力自慢のリエンがぶっ倒れたのにキョウヤが失神しなかったのはね、インド数学による緻密な軌道計算と、相手の動きを予測した私の見事なテクニックのおかげ。キョウヤの頭が元々固かったこともちょっとぐらいは関係していそうね。ところでさ、これから何処へ行くの?」
 頭に出来た巨大なたんこぶを、キョウヤは恐る恐る触れた。頭に響かないよう、小声で答える。
「インド数学で予想してくれ」

 03

 ハードボイルドな男には、共通の哲学がある。タフでなければ生きていけない――それである。その体現者としてリエンの名を挙げても構わないだろう。大怪我を負いながらも、彼は任務を忘れなかった。意識を取り戻した彼は治療を受けるより先に、雇い主であるスギヤマ会長に携帯電話で連絡を入れた。アカネを取り逃がした不首尾を謝罪し、次いで逃亡を手助けしたホームレス風の中年男について報告する。
「痩せて背の高い、ひょろひょろっとした中年の野郎です。垢じみた流行遅れのすりきれたコートを着て、髪の毛はボサボサ、頬はげっそり、体中からチーズの臭いがして、一見してホームレスって感じでした。しかし、かなりタフな男のようです。全力パワーを出したアカネお嬢さんのフルスイングでも壊れませんでしたから。並外れた頑丈さです……ええ、その可能性はありますね。お嬢さんや俺と同じ改造人間っていう可能性。ありです。大ありですよ」
 しわがれた声が電話口の向こうから流れてきた。
「私のほうでも調査しておこう。若い女連れのホームレスを見つけたら連絡するよう、鼻薬を嗅がせた警官たちに伝えておく。手出しはするなと念押ししてな。お前にも念を押しておくぞ。娘の家出を警察に通報したのは、捜索の網を少しでも広げるためだ。警察を必要以上に深入りさせたくはない。アカネを捕らえるのは、あいつのボディーガードであるお前の仕事だ。いいな?」
 少女の忠実なる護衛、リエンは頷いた。アカネの正体が世間に知られたら、ただでは済まない。一見、普通の女子高生――しかしその実体は、生体改造手術を受けて凄まじい戦闘能力を有するに至った、地上最強のワンマン・アーミーなのだ。
 その秘密を悪用すれば、世界征服も夢ではなくなる。
 だが、アカネにも欠点はある。精神のコントロールを失うと体内の熱核反応炉が暴走する危険性があるのだ。加えて彼女は、戦う力は人並み以上なのに、メンタル面は普通以下の脆弱さしか持たなかった。
 カッとなったら何をするか分からない人間が核ミサイルの発射スイッチを握り締めているようなものである。そのギャップは極めて危険なものと言っていい。
 最悪の事態を防ぐ手立ては、あるにはあるのだが……リエンは唾を飲み込んだ。
「スギヤマ会長、一つお願いがあるんですが」
「なんだ?」
 夕闇迫る屋上に、緊張の声が響く。
「出過ぎた真似だと思いますが、言わせてください。アカネお嬢さんの脳改造、あれだけは中止していただけませんでしょうか?」
「それは受け入れられない話だ」
「だったら熱核反応炉を取り外して、普通の女の子に戻してあげましょうよ」
「今さら不可能だ」
「ですけどね、力を暴走させると地球を滅ぼしてしまいかねないなんて人物設定、前世紀末で終わっていますよ」
「設定の問題ではない。そう、それだけの問題ではないのだ。人は皆、心技体の充実を目指さねばならない。いうなれば、超人。それこそが、人類の目指す道だ」
「相撲取りが超人だったら朝青龍は魔人ブーです。スギヤマ会長、人間の将来像は哲学者に任せましょうよ」
「リエン……私は優れた医学者であり、幾多の大企業を支配するスギヤマ・コンツェルンの会長でもあるが、何よりも偉大なる哲学者でありたいと願っているんだよ」
 人類史上最高かもしれぬ頭脳を持ちながら狂気に陥って死んだニーチェに比すべき奇矯さを、アカネの実父は抱いているようである。返す言葉を失ったリエンの耳に、乾いた声が届いた。
「アカネが戻って来たら、直ちに脳改造に着手する」
 リエンは声を絞り出した。
「あんなに嫌がっていたじゃないっすか。だから家出なんかしたんですよ!」
「……脳を改造しない限り、精神の安定は保たれない。嫌なことがあったら自動的に百まで数える装置を奥歯に仕込むだけの手術だ。それすら嫌がる人間は、いつまでも自分勝手な振る舞いを繰り返すぞ。いつまでも家出娘のままじゃ、どうしようもない」
「その度に連れ戻せばいいじゃないっすか」
「馬鹿な男に騙されて、力を乱用するようになったら、どうなる? 違法な合成麻薬を飲まされて理性を失う事態になれば――」
「そんなことにならないよう、俺が見張ります」
「そんなことが出来るのならば、今すぐ娘を連れて屋敷に戻って来い」
 携帯電話がぶつんと切れた。リエンは悪態を吐きながら、携帯電話をスーツのポケットに入れた。それから深呼吸をする。遊具のポニーの横に腰を下ろし、座禅を組む。肩の力を抜き、瞑想に没入する。軽くなった意識を頭上から飛ばす。薄暗くなった中空に淡く光る月の横で、リエンの魂が激しく輝く。彼の熱い魂から放たれたアツいビームが冷たい街をスキャンする。アカネを探し求めるビームが街の温度を上げていく。
 作業に思念を集中させながらも、リエンは深く悩んでいた。アカネを探し出したいという思いと、見つからなければよいという気持ちの狭間で、彼の心は揺れ動いているのだ。嫌がるアカネに脳改造手術を強要するのは、本意ではない。だが、ほったらかしにしておいて熱核反応炉が暴走するのも困りものである。
 アカネのために、自分は何が出来るのだろう?
 自分に問いかけてみても、答えは浮かんでこなかった。

 こんなときフィリップ・マーロウならば、どんな言葉を送るだろうか?
 ギムレットには早すぎる……これでないのは、確かだろう。

 04

 キョウヤの素敵なマイホーム、高速道路の橋の下のダンボールハウスへ連れて行かれたアカネは、一目見るなり入るのを拒んだ。助けてもらったお礼もあることだし……と言って三ツ星の高級ホテルに電話をかけ、スイートルームを二つ取った。両方の部屋に客が入っていたにも関わらず、である。さすが三ツ星だけのことはあって、わがままセレブへの対応は慣れっこらしい。
 橋の下から這い出して、二人は土手を登った。しばらく歩けばタクシーを拾えるところに出る。さっさと行けばいいのだが、スポンサーであるアカネの足取りは遅い。凍てつく夜風が川面を揺らす。アカネの黒髪が揺れる。呟く。
「あなた、改造人間よね。私の父親に手術されたんでしょう? 最初に見たとき、分かったわよ」
 答えは返ってこなかった。アカネは話し続ける。
「もう分かっているわよね? 私も改造人間だってこと」
 彼女は細い指に髪を絡めた。枝毛を探す風でもなく、ぼんやりと毛先を眺める。
「自分の体が普通じゃないって知ったのは、物心が付いた頃だった。お父さんに聞いたらさ、そうとも、お前は改造人間だ! って返事なの。すごくショックだったわよ。それでね、お母さんのところへ泣きながら走ってったの。お母さん、嘘でしょ、私は普通の女の子でしょって。そしたらね、お母さんが言うわけよ。ごめんね、アカネ。それは本当の話なの。それにもう一つ、伝えなきゃならない大切な話があるの……そう言いながら、お母さんは胸を開いたわ。機械がいっぱい詰まってた。自分は本物のお母さんではなく、育児用に開発されたロボット、ナノデスって。最後のほう、あれ絶対カタカナの発音だった」
 眩い月明かりを浴びて、彼女の黒髪が光った。
「本物のお母さんは、私を産んだときに亡くなったんだって。私もお母さんも死にそうになって、どちらか一方しか助からない状態で、どうしたらいいかお父さん分からなくって、大混乱だったときにお母さんが、自分はいいから赤ちゃんを助けてってお願いしたんだって。それで産まれたのが、この私。でもね」
 アカネはその場にしゃがみ込んだ。小石を拾い上げて、立ち上がる。
「産まれてすぐ、死にそうになったの。多臓器不全って病名だったそうよ。全身の臓器がダメになっちゃった状態らしいわ。お母さんの命を犠牲にして産まれた私なのに、情けないったらないよね」
 右の掌を広げ、そこで握り締めていた小石を左手に移す。そして彼女は大きく振りかぶった。左のサイドスローで小石を投げる。投じられた小石は暗い川面に消えた。
「そのとき、お父さんは私の体を改造することに決めたんだって。生命倫理学も何も関係ない。絶対に助ける、悪魔に魂を売っても、娘を助けるって」
 アカネは土手の芝生に腰を下ろした。
「悪魔に魂を売るっていうのはね、つまり」
 闇の中からキョウヤの呟きが流れた。
「それは知っている。僕も深く関わっていたから」
 キョウヤは背中を丸め、アカネの隣に座った。

 06

 自分が悪だなんて、これっぽっちも思ってはいなかった。
 金を返さない奴が悪い。そう信じていたんだ。
 借金を返済できないなら、腎臓と肝臓を売れ! なんて、無茶苦茶だったと今は思う。
 だけど当時は、歪んだ金銭哲学に頭からどっぷり浸かっていたんだ。
 そんなとき君のお父さん、スギヤマ会長と知り合った。子供の臓器を大量に欲しい。金は幾らでも払うから、どんどん手に入れてくれという依頼だった。あれは、君を生かすためだったんだろうね。僕は日本中、いや世界中を飛び回って臓器を掻き集める、臓器売買のスペシャリストだった。ワールドワイドな仕事だったよ。買い手は世界のお金持ち。内臓を売るのは万国共通、貧乏人だった。誘拐した子供の内臓を購入したこともあったな。臓器密売ビジネスは大繁盛だったよ。僕はさらにビジネスを拡大した。出産後に廃棄される胎盤を安く手に入れて、美容クリニックへ卸すのさ。胎盤はプラセンタと呼ばれる人気商品なんだ。美容と健康と痩身と……効果効能は何でもあれって感じだ。堕胎した胎児も卸したよ。プラセンタより高く売れた。
 話がそれてしまったね。
 僕はビジネス範囲を広げていった。君のお父さんは、別の研究を始めていた。臓器移植ではなく、人工臓器に可能性を見出したんだ。自分の子供を救うためとはいえ、他の子供を犠牲にすることが、辛くなったんじゃないかな。だから、正確に言うなら、その頃から君は、本物の改造人間になったのだと思う。それはどうでもいいことかもしれないけどね。
 今までの話が残酷に聞こえたのなら、謝るよ。だけど、これは真実だ。
 そうだ、僕が改造人間になった事情を話しておくね。
 悪行の限りを尽くしてきた僕に、とうとう逮捕状が出たんだ。国際手配だ。まあ、予想はしていたからショックはなかった。だけど上手くいかなかった。すべての記録を抹消し、新しい戸籍を買って、再起を図ったところで、大病を患ってね。臓器移植を受ける以外に、助ける見込みがなかった。ところがどっこい、拒否反応が酷くて臓器移植は断念。君のお父さんのところに駆け込んで、どうにか救ってもらったんだ。さすがに僕もね、罪の意識に苛まれた。要するに、因果応報って奴だね。報いってものはあるんだなって本当に思ったよ。死ぬ思いをして始めて分かるなんて、遅すぎるけどね。
 あれ以来、臓器密売の仕事から足を洗った。他の悪事からも手を引いた。
 そして僕はホームレスになった。そうすることで自分を罰しようと思ったんだろうなあ。だけど何か違うって気付いた。最初は辛かったけど、慣れるとやめられないんだよね。落ちていく自分に自虐的な喜びを感じているってのもあるし。
 今のままじゃ駄目なことは分かっているつもりさ。でも、どうすればいいのか、分からないなあ。

 07

 キョウヤは溜め息を吐いた。真っ暗な川の向こう岸を眺める。アカネも視線の先に目をやった。折悪しく月は雲に隠れ、改造人間のスーパーアイをもってしても何が何だか分からない状況だったが、向こう岸から叫び声が聞こえたので事情を把握した。
「キョウヤ、そこを動くんじゃねーぞッ!」
 声の主はリエンだった。アカネが大声を出す。
「近くに橋があるけど、そこは高速道路だから歩けないわ! もう少し川を遡ったところに歩道のある橋が架かっているから、そこを渡って!」
 不思議そうな顔でキョウヤが尋ねた。
「空中浮遊できるのに、どうして川を渡れないんだ?」
「彼の生まれはインドなんだけど、小さい頃にガンジス河で溺れかけたんだって。舟が転覆して、両親は死んじゃって、生き残ったのはリエンだけ。それ以来、川を渡るのが怖いんだってさ」
「……そんなことがあるんだねえ」
「誰だって一つや二つ、辛い思い出を抱えてるってことじゃない」
 それから彼女は、くすっと笑った。
「いやだ私ったら、リエンから逃げているの、すっかり忘れてた」
 彼女は家出した事情をさらりと述べた。
「私の暴走を抑えるために脳改造をするんだって。熱核反応炉を取り外したら、私は死んじゃう。でも、今の私じゃ熱核反応炉は危なっかしくて扱えない。心が成長したら、脳改造をしなくて済むんじゃないかって考えて、そのためには親元を離れて人生経験を積まなきゃって私、思ったの。宇多田ヒカルみたいに、人間活動に専念かなっ感じで。そんでもって家出して、ドタバタしてみたけど、でも結局、何も変わってないみたい。これだったら家に戻っても同じかなって思うの。脳改造はさ、リエンを味方につけて抵抗したら、何とかなるんじゃないかな。あいつは私の言うこと何だって聞くから」
 悪気はないのだろうけれど、キョウヤは否定的な見解を述べた。
「君はまだまだ子供なんだね。自分一人じゃ何も出来やしない。ドタバタを繰り返しても、何も変わらないのなら、さっさと家に戻るのがいいよ。親離れは早すぎたってことさ」
 それが気に障ったのかもしれない。アカネは意地悪く言った。
「あなたに変えてもらっちゃおうかなあ」
「どゆ意味?」
「こういう意味」
 アカネはキョウヤの体に突然、抱きついた。勢い余って二人、芝生に転がる。改造の故か本来の体質のためか、アカネの胸は叶姉妹も嫉妬で歯噛みするほど豊かに盛り上がっていた。いつもより心なしか乳首が膨らんでいると、彼女は感じていた。理由はおおよそ、分かっている。男の汗と垢の臭いが興奮を煽っているのだ。こんなの初めて……コートに包まれたキョウヤの胸に頬を押し当て、アカネは密かな愉悦に震えた。
 刺激的過ぎる体臭の発生源が言った。
「重いんだけど、早く離れて」「早く離れろ! 二人とも!」
 アカネは気だるげに体を起こした。怒りに体を震わせているリエンに、彼女は舌打ちをした。
「ゆっくり歩いたらよかったのに、このお邪魔虫!」
「リエン君、アカネさんは君に任せるよ。それじゃ僕はそろそろマイハウスに引き上げるから」
「待てよ、キョウヤ!」
 リエンは中年男の前に立ち塞がった。憎しみのこもった目で睨みつける。
「逃がしはしないぜ、お前とはどうしても決着をつけなきゃなんねーんだよッ!」
 アカネが二人の間に割って入った。
「やめて二人とも! 私のために争わないで!」
 握り締めた拳を震わせて、リエンが怒鳴る。
「川の向こう岸にいるとき、俺の地獄耳で聞かせてもらったぜ。お前、臓器密売をやっていやがったんだってな!」
 自分とは無関係の一件であるにもかかわらず、河合奈保子の名曲『けんかをやめて(作詞作曲・竹内まりや、編曲・清水信之)』気取りでしゃしゃり出たアカネは、何事も無かったかの如く引き下がった後、口元を両手で覆って一歩前に出た。
「どういうこと……ねえ、それってどういうことなの!」
 リエンはぐすりと笑った。
「アカネお嬢さん……臓器密売を家業にしている奴らは、俺の親の仇なんすよッ!」

 08

 臓器密売ビジネス網は世界中に張り巡らされている。売買される臓器を資源と考えるならば、貧しい開発途上国ほど臓器の豊富な資源大国と言えよう。
 その中の一つが、インドである。
 強固なカースト制の下、人間扱いされない不可触民に、当然ながら人権は与えられていない。支配階級である高位カーストの連中から見れば、不可触民など家畜と同じなのだ。気の向くままに殺し、燃やし、犯し、内蔵を抜き取って売る。賄賂を貰っている軍や警察は見て見ぬふりだ。人肉天国。それがかつてのインドだった。
 しかし近年、そこに変化が現れつつある。虐げられてきた者たちが武器を手に取り、支配者たちに反旗を翻しているのだ。不可触民などからなる反乱者たちは、テロリストの汚名を着せられることなどものともせず、軍や警察そして臓器狩りを職業とする犯罪組織と対決している。
 リエンの両親は最も勇猛果敢な抵抗グループに所属していた。官憲から多額の報奨金をかけられる賞金首になるほどの戦いぶりだった。当然、敵の恨みを買いやすい。束の間の家族団欒にガンジス河で舟遊びとしゃれ込んでいるところを、臓器密売グループに襲われた。場所は釈迦が説法を行ったとされる梨園精舎のすぐ近くだった。河岸から放たれた百発以上の弾丸が、若い夫婦とおんぼろボートを蜂の巣に変えた。幼い一人息子は泥の河に転がり落ちて哀れお陀仏……かと思いきや、インドの聖なる流れガンジスが素敵な奇跡をもたらした。優しいガンジスワニが背中に乗せて岸まで運んでくれたのである。
 リエンの修羅場人生は、その日から始まったのだろう。長じた彼はインド国内の臓器密売人を片っ端から殺した。母国で暴れすぎ、もういられなくなったら、お次は中国。そこもやばくなって東南アジアとオセアニア。太平洋を越えて南米、そしてカリブ海を渡って北米へ。ヨーロッパへ行く前に日本で一仕事と思い、狙いをつけたのはスギヤマ会長とその一人娘のアカネだった。裏の世界じゃちょっと有名な父娘だが、殺しの腕にかけちゃ誰にも引けを取らない。二人の命を頂こうとスギヤマ会長宅へ向かう途中の夜道で、リエンは襲撃を受けた。襲撃した連中は、ヨーロッパの組織が先手を打って送り込んできた刺客だった。どうにかこうにか撃退したが、リエンはもう身動き一つ出来なかった。血だらけで道路にへたり込む。そこを通りかかったのが塾帰りのアカネだった。血みどろの男を見ても、彼女は怯えなかった。今すぐ救急車を呼ぶから気をしっかり持って! と呼びかけられたことまでは、リエンは覚えている。次の記憶はスギヤマ会長宅でベッドに横たえられているシーンまで飛ぶ。目覚めたら、ベッドサイドにアカネが座っていた。瀕死の重症みたいだったから救急車を呼ぶより、お父さんに手術してもらったほうが助かると思ったの。そう言ってから彼女は、テヘッと舌を出した。でも、ごめんなさい。お父さんね、あなたのこと改造人間にしちゃったわ。
 自分が生き延びられたこと、そして改造人間になってしまったこと、それより何よりリエンを驚かせたのは、アカネの美しさだった。
 彼は人目で恋に落ちてしまった。そこからの宗旨替えは速い。暗殺目的で来日したことをスギヤマ会長に告げてから、ボディーガードとして雇ってくれるよう懇願する。暗殺目的で面会した坂本竜馬を弟子にした勝海舟の故事にならったのかどうか、それは定かでないけれど、勝と同様にハッタリをかまし気味な人物であるスギヤマ会長は馬鹿正直なリエンを気に入り、住み込みで働かせることに決めた。
 リエンは有頂天になった。まさに願ったりかなったりである。
 恋した美少女と同じ屋根の下で暮らす。洗濯籠の中に彼女の下着を見つけてしまったり、誰も入っていないと思って風呂の扉を開けたら全裸でご対面とか、つまり毎日がラブコメなのだ。心臓がドキドキして、胸がキュンキュンする、この甘酸っぱさ、どうよ! お客さん! てな具合である。

 09

 ここまでの文章を読み終えたアカネが言った。
「えっとさ、一応、確認しとくね。要するにリエンは、私のことを愛しているってことなのよね」
 真っ赤な顔のリエンが頷く。
「お前だけを、心から愛している」
 アカネは頬にかかる黒髪を口に含んだ。
「嘘」
「本当だよ」
「嘘よ」
「信じてくれ」
「嘘ばっかり」
「本心で言っているんだ。その証拠に――」
 リエンはアカネをそっと抱きしめた。
「俺の鼓動、聞こえるだろ。破れそうなくらい震えているのは、お前が恋しくてたまらないからさ」
 アカネの耳が赤く染まった。リエンは感情を抑えきれなくなった。腕の中にいる少女を、力いっぱい抱きしめる。耳元で囁く。
「インド古来から伝わる梵我一如ってものを今、理解できたような気がする」
 男の胸でアカネは吐息を漏らした。
「ウパニシャッド哲学の言葉よね、それって……」
 こそばゆさを感じながら、リエンは言った。
「詳しい意味なんか分からない。だけどお前と一つになるほうが、悟りを開くよりずっと素敵だって感じてる。もっと深く一緒になれたら、もっともっと素晴らしいはずだ」
「それって……」
「いいだろアカネ、俺はお前を愛してるんだから」
 そのときアカネの耳から大量の煙が噴出した。全身がガタガタと振動する。そして彼女はぶっ倒れた。

 10

 ささやかなラブコメシーンのお邪魔にならぬよう川で夜釣りをしていたキョウヤが水の入ったバケツを担いで駆け寄ってきた。目を見開いたまま気を失っているアカネに冷たい水をぶっ掛ける。しかし事態は最悪の展開を見せた。来年度大河ドラマの主人公、平清盛の死に際の如く、掛けられた冷水は瞬時に水蒸気と変わってしまう有様である。
 これっぽっちのロマンスで興奮してしまったアカネのぴゅあぴゅあはーとは、熱核反応炉の暴走を招いてしまったのだ。
 恐れていた事態が起こってしまった……その原因が自分であることを自覚しているリエンは、顔を歪めて夜空を仰いだ。あまりの出来事に放心してしまった彼は、寒風に凍り付いた雪の彫像の如く、その場を動けずにいる。
 流れ出た涙に濡れた彼の頬を、キョウヤが思いっきり張った。
 打たれたリエンに生来の勝気さが蘇った。血走った目でキョウヤを睨む。
「何するんじゃ、ワレッ!」
 キョウヤは自分の着ているコートを引き裂いた。胸のカバーを開ける。内部から人工心臓を取り出す。体内に接続されていた四本のチューブを外す。代用血液が溢れ出た。キョウヤの胸が赤一色に染まる。
「何をしているんだ?」
 かすれた声でリエンが尋ねた。人工心臓を取り出したら、たとえ頑丈な改造人間であっても死ぬ。現にキョウヤの顔色は瞬く間に悪くなっている。酸素と血液不足で死亡するまで、残り時間は――キョウヤがカウントダウンを遮った。
「僕のことはどうでもいい。アカネさんを助けるんだ。そして世界を救え!」
 リエンは息を呑んだ。
「ど、どうやって?」
 人工心臓から伸びるチューブを二本持ち、キョウヤは川岸に向かった。岸辺に座り、二本のチューブを川に入れる。
「いいか、よく聞くんだ……外部から水を掛けても反応炉本体を冷やす前に蒸発して役に立たない。幸い、彼女の熱核反応炉は、二つの胸の膨らみに内蔵されているようだ。僕の人工心臓に付いているチューブ二本を、乳頭部分にある熱排出孔に捻じ込め。他の二本のチューブはこうやって川に入れて水をくみ上げる。ポンプを手動でフル稼働させて、冷却水を彼女の乳房に注ぐんだ。そうすれば、きっと」
 そこまで言ったところでキョウヤの体はがくんと崩れた。川にザブンと落ち、下流へ流されていく。追いかけようとしたリエンに向かって、川面に浮き沈みするキョウヤが叫んだ。
「僕に構うな、アカネちゃんと世界を救え!」
 やがてキョウヤの姿は消えた。後に残されたリエンは涙を堪え、言われたとおりのことを実行した。人工心臓のポンプを手動で動かすハンドルを延々と回し続ける。注入された水の勢いで乳首に入れたチューブが外れる場合があったので、危なくなったらお乳に押さえなければいないのが面倒だった。
 アカネの大きな胸を弄り回すのは、うれし恥ずかしのウハウハ体験だったろうと考えるのは、下世話な根性丸出しの邪推というものでしかないけれど、愛した人と世界を救う救援活動の真っ最中に「エエ乳してんなー」的な感情がまったくもって浮かんでこなかったと言い切ってしまうのも真実とは言いがたく、つまり世の中に真理というものがあるとすれば、所詮は違う生き物同士である雄と雌が、愛し合ったり憎しみ合ったり微笑を交わしたり刃を交わしたりする刹那に、両者の中間に相当する虚空の裏側でぷかり、ぷかりと浮かぶ泡の如きものであるに違いないと、いいかげんなことを書いているうちに夜が明けた。

 11

 目覚めて吃驚。おっぱい丸出しの野外露出、しかも両方の乳首にチューブが突っ込まれている。生涯で最低の朝かもしれない。アカネは泣きたくなった。チューブを引っこ抜き衣服を着ながら、その原因を作った男を睨みつける。
 リエンは彼女の横で突っ伏した姿勢で寝ていた。だらしなく涎を垂らす寝顔を見ると、悪戯してみたくなる。坊主頭を指先でコツンと弾く。そして撫で回す。寝息の調子が変わったので止める。
 リエンが目を覚ましたのは、それからまもなくしてからだった。アカネが生き返ったことに喜びの涙を流し、死んでしまったキョウヤを思って悲嘆の涙を落とす。
 事情を聞いたアカネも泣いた。ダウンジャケットのポケットに入れた携帯電話が鳴り響いたが、無視して泣き続ける。携帯電話も鳴り続ける。根負けしたアカネが電話をつないだら、父親の不機嫌な声が聞こえてきた。
「電話が鳴ったら早く出ろ」
 さっきまでの涙は何処へやら、アカネは激怒した。
「うるさいわね! どうしてそんなに高圧的なのよ! 私、絶対に家には帰らないからね。熱核反応炉は暴走したけど、何とかなったもん! これだったら平気よ。このままずっと、家出してやるんだから!」
 スギヤマ会長は静かに言った。
「体に仕込んだマイクで状況は把握している。お前は事態をわかっているのか? キョウヤを犠牲して生き延びたんだぞ。他人の犠牲の上に成り立って、お前は生き延びられたんだ。これまでと同じだ。何も変わっちゃいないんだ」
 その通りだと、アカネは素直に思った――しかし、どうすればよいのか、それが分からない。
「いいから家に帰って来い。脳改造手術の準備を整えて待っているぞ」
 父親が最後に言った言葉がアカネの耳の奥で木霊した。脳改造を受ければ、熱核反応炉が暴走することはなくなる。だけどそれは、今の自分ではなくなることを意味する。
 悩む彼女の肩にリエンが手を置いた。
「アカネ、嫌なことをする必要はない。どんな困難だって、二人なら乗り越えられる」
 リエンの言葉は力強かった。しかし、アカネの不安は消えない。
「お父さんから独立して、私たち、やっていける? きっと世間の皆は、陰口を叩くわ。改造人間だとか、意味不明の話だとか、ネットの掲示板やアマゾンなんか、もう大変よ」
 それでも――愛し合う若い二人は、希望を抱かずにはいられなかった。
 長く苦しい夜も、いつかは明ける。冷たかった大気もいつしか暖まっていく。空気よりもずっと暖かい互いの体温を逃さぬよう、恋人たちはぴったりと肩を寄せ合った。初めての夜を過ごした土手の芝生に仲良く座り、二人は冬の朝日を見つめていた。


市川団十郎 

2011年01月01日(土)00時02分 公開
■この作品の著作権は市川団十郎さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
 示談でまとまり気持ちに余裕が生まれました。この場所をお借りさせていただきまして、事件の概要をご報告申し上げます。



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2011年02月09日(水)22時28分 真柴竹門  +10点
はじめまして、真柴竹門です。本作を読了した日に散髪屋さんへ行って、一ヶ月ぶりに髪を切ってもらいました。そんな頭部をガリガリと掻きながら感想を書きます。

えーと、実は私も折伏ぬゐさんと同じく、どのような感想を書けばいいのか戸惑っています(笑)。だから頭をガリガリせずにはおられません。
出だしからいきなりホームレスのネタが来たんで、この御時世ですから身につまされる思いに苛まれました。ほんと、明日は我が身かもしれない話ですもの。
ですから、このような厳しい状況下に置かれてる人間が「哲学」と出会ったらどうなるんだろうか、どのように「哲学」が活躍するのだろうか、とかなり興味深く読み進めました。
ところが、そのようなハードボイルド的期待は見事に裏切られます。何なんですか? このガキみたいな少女とスキンヘッドは? 「固ゆで卵で錆びれた世界観」が突然「たまごパンでごっこ遊びな世界観」に変わっちゃいましたけど?
いやまあ、こーゆうギャップを狙ったギャグは嫌いじゃないんですけどね。いっそのことキョウヤを投げ飛ばす時にアガネが「ホームレスアターック!」と必殺技名でも叫べば尚よかったんじゃないでしょうか?(笑)。
私は折伏ぬゐさんと違って、KAGEROUを読んだことがないどころか、海老蔵さんの顔に怪我事件もニュースでちょこっとしか知らないので、あまりついてこれません。私はウパニシャッドもよくわかってない人間ですし、そもそも谷啓って何?
そして改造人間というおバカな設定でリアルにシリアスな過去が明かされるシーンには、何故か感動しちゃいました(笑)。作者はハードボイルドな雰囲気を作るのが上手いと思われます。
でも、やっぱり「自分は本物のお母さんではなく、育児用に開発されたロボット、ナノデス」ってフザケるんですね(笑)。
それからキョウヤの過去も、結構いいです。うんうん、落ちていく人間の心境ってこういうもんです。
っていうか多臓器不全やら臓器密売ってネタもまた何か具体的でリアルですなあ(笑)。
そのリアルなネタの中に「河合奈保子」「梨園精舎」「ぴゅあぴゅあはーと」とかシリアスを完全にぶち壊しにするネタを振るって、きっと作品だけじゃなく作者のほうも人格が崩壊しているのでしょう(う、嘘なんだからね! 真に受けじゃダメなんだからね!〔汗〕)。
というか、咬ませ犬(リエン)を倒して点数稼ぎをする主人公的立ち位置が、いつの間にキョウヤからリエンへ交代したんですか? ああ、きっと「08」の所を書いた頃に作者の脳内でコロッと変更されたのでしょう。
それでもキョウヤがあまりに咬ませ犬すぎて不憫でした(笑)。しかも「僕に構うな、アカネちゃんと世界を救え!」とイカスことを言っておきながら「乳頭にチューブを差し込め!」ってオイオイ、読者はどのように感動したら良いんですか? 教えてくださいよ(笑)。
そんでラストは作者が放り投げた感がします。いや、絶対に放り投げましたな(笑)。
つーか(笑)のツッコミの多い感想文になっちまいましたなあ(笑)。

まあ、とりあえず点数は十点にさせて頂きます。けれどリエンはフィリップ・マーロウというより、家出娘を探すサム・スペードじゃないかと。
それでは、この辺で失礼します。

137

pass
2011年01月11日(火)02時56分 モーフィアス  0点
 いや。
 冒頭からいきなり続くハードボイルドは、完全にこの作品の足かせですよ。
 なんといっても、特に面白くもない描写を延々と並べ続けるというのは、完全にこのサイトの雰囲気とはかけ離れてます。致命的です。
 誰も読みません。ジャンルが違うので。面白く無い。
 うーん。それにしてもかけ離れすぎてます。このサイトの作品を眺めて回ってみるべきです。どういうサイトなのか。
 場違いなことに関しては、-30点をつけてもいいぐらいです。まぁマイナス点はつけませんけど。

 そして。
 ハードボイルド作品として見てみても。
 出始めがひたすら延々と状況の説明やら主人公の説明やらです。これでは物語自体が、実は始まっていない状態です。延々と予告編を流しているだけ、といった感じです。
 「追われているの、助けてちょうだい!」
 状況を延々と説明する前に、まず、この台詞から始めて、作品自体を開始するべきです。この台詞よりも上で延々と書いているなが〜い文章は、全部カット。
 まずテンポよくスピーディに物語を進めながら、少しづつ小出しで世界観の説明やらは出していくべきです。
 人を楽しませる小説というのはそういうものであって、誰も説明やら地味な描写やら事実の列挙は読みたくありません。

 他人が実は、自分の作品をまったく読んでくれないのではないか、ということを常に意識しないと、独りよがりに物語を時系列に沿って並べ続けるだけになってしまいますよ。
126

pass
2011年01月07日(金)23時08分 市川団十郎 GRO/swM80A 作者レス
 はじめまして、ぬゐさん。お返事が遅れて誠に申し訳ございませんでした。読んでいただけて本当に嬉しいです。

>えー……どうコメントしたらよろしいのか、非常に困っております(笑)
とりあえず、序盤のハードボイルドな文章に「これは本格派だな……」と折知り顔で顎に手をあて考えさせられたことに関しまして、謝罪会見を要求したい気分です。確かにこういうノリ大好きですけども。
ああなるほど、本当に暴走していたのは核反応炉ではなく作者様のほおやこんな時間に誰(ry

 扱いに困る作品ですよね(笑)
 序盤のハードボイルドな文章は、哲学性に乏しいことを隠蔽するための粉飾工作だったのですが、開始早々に息切れを起こしてしまい中盤まで続きませんでした。あのスタイルを維持できたなら内容の貧しさを誤魔化せたかもしれません。無念です。
 もちろん、ご批判はすべて甘受するつもりです。ご要求の謝罪会見を開くこともやぶさかではございません。
 こういうノリで書いてしまったことについて、私自身とても悔やんでいるのです。
 最も後悔しているのは、お題である哲学に、ほとんど触れていない点です。
 悔しくてなりません――どうして私は、「愛とか恋とか、人を好きになるとか、そこに理由や根拠は無くて、まして道徳で語ることなど私にはできません」という独自の恋愛哲学をツイッターで開陳したAPF通信社の山路徹代表を作中に登場させなかったのでしょう!
 これらの失態の原因は多数ございます。その一つが、執筆速度の遅さです。ちんたら書いていたら、いつしか紅白歌合戦はフィナーレを迎え寒空に除夜の鐘が響き渡って時計の針は深夜零時を回り、もう締め切りは過ぎたというのにほおやこんな時間に誰(ryって俺だよ! な有様でした。
 私は、もっと暴走すべきだったのです。

>途中で題名と内容の関係に合点がいきました。それでもどうしてこうなった感が最後まで付き纏いましたが。
あと私はまだKAGEROUを読んでないので、細かいネタとかに気づけていないかもしれません。海老さんの方はなんとなくわかりました。

 どうしてこうなったのでしょう(苦笑)
 哲学、海老、KAGEROUの三題噺で行こう! と決めたことだけは覚えているんですよね。その決定に至るまでのプロセスがはっきりわからないのです。
 基本線である『哲学的な彼女』は、誰も書きそうにないインド哲学で、と最初に考えました。問題は、インド哲学について私が何も知らないことです。勉強せねば、とインターネットで検索する合間にKAGEROUや海老さん関連の話を読んでいたらアッという間に時は過ぎ、肝心のインド哲学はわからないけれど年末に世間を騒がせた出来事に関してはそれなりに詳しいという状態で執筆したため、この始末……だと思われます。
 もっとも、作中で取り上げた世俗的な出来事に関して、私が詳細に知っているとは到底申し上げられません。
 今になって気付いたのですけど、題名を間違っていました。KAGEROではなくKAGEROUだったのですね(汗)
 水嶋ヒロ改め齋藤智浩先生、ごめんなさい(土下座)。

>難点を挙げさせていただきますと、インド数学やウパニシャッド哲学に関する説明を、ちょっとしたものでも書いて欲しかったです。ググってもいいんですけど、それだと話を切ってしまう感じになるので。

 これは論外のミスですよね(泣)。
 インド数学やウパニシャッド哲学に関する説明を、今ここに書いてみます。
 さて、インド数学とは、つまり二桁の掛け算などに代表される……こほん、ウパニシャッド哲学を先に片付けましょう。ウパニシャッドとは、奥義書という意味であり、そして――えっと、忘れました(号泣)。
 今、インドに関して私が思い出せるのは、世界初のインド人演歌歌手チャダ(代表曲『面影の女』)は途轍もなく歌が上手かったこと、「インドの山奥で修行して」の歌詞で有名なレインボーマンの作者・川内康範先生の耳毛は貫禄があって立派だったこと、新宿伊勢丹前でアントニオ猪木・倍賞美津子夫妻(当時)を襲撃し世間から「インドの猛虎」「狂った虎」と恐れられたインド出身プロレスラーのタイガー・ジェット・シンが本当は温厚な紳士であること……これぐらいです。
 この三人を登場させたほうが面白かったように思えてきました。
 次の企画では彼らと『哲学的な彼女』の活躍を書きたいですね(笑)

>最後はもっと突き抜けてほしかったです。途中あそこまではっちゃけるなら、綺麗にまとめなくても良かったかと。いっそ核反応炉爆発でも……(笑)

 最後まではっちゃけたまま、ドカンと爆発! そして文章の映った表示画面が粉々に割れ、壊れた電気部品やプラスチックが読者の頭を突き抜ける……みたいな展開もありだったかもしれません(笑)
 綺麗にまとめたのは(一応、そのつもりなのです)、最後の場面を書いているときに、水嶋ヒロさんと絢香さんご夫婦の姿が、ふと頭をよぎったからだったと記憶しています。
 二人とも、いろいろバッシングされているじゃないですか。
 何となく、応援したくなったんですよね。
 こんな作品の中で私なんかに、しかもあんな形で応援されたって迷惑という気が致しますけれど、まあそれは、お二人が支払う有名税ってことで(笑)

>予想に反して楽しく読ませていただきました。私からは以上です。では。

 お楽しみいただけたようで、何よりです。
 ご感想、本当にありがとうございました。
 それでは、さようなら。



pass
2011年01月02日(日)01時19分 折伏ぬゐ 3zzXlUmpzE +20点
はじめまして市川団十郎さん。ぬゐというものです。作品読ませて頂きましたので感想を。


えー……どうコメントしたらよろしいのか、非常に困っております(笑)
とりあえず、序盤のハードボイルドな文章に「これは本格派だな……」と折知り顔で顎に手をあて考えさせられたことに関しまして、謝罪会見を要求したい気分です。確かにこういうノリ大好きですけども。
ああなるほど、本当に暴走していたのは核反応炉ではなく作者様のほおやこんな時間に誰(ry

途中で題名と内容の関係に合点がいきました。それでもどうしてこうなった感が最後まで付き纏いましたが。
あと私はまだKAGEROUを読んでないので、細かいネタとかに気づけていないかもしれません。海老さんの方はなんとなくわかりました。

難点を挙げさせていただきますと、インド数学やウパニシャッド哲学に関する説明を、ちょっとしたものでも書いて欲しかったです。ググってもいいんですけど、それだと話を切ってしまう感じになるので。

最後はもっと突き抜けてほしかったです。途中あそこまではっちゃけるなら、綺麗にまとめなくても良かったかと。いっそ核反応炉爆発でも……(笑)


予想に反して楽しく読ませていただきました。私からは以上です。では。
133

pass
合計 3人 30点


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