『完璧』少女の欠落
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第1章

 誰もいない屋上。時刻はそろそろ9時になろうとしている。
 今頃まじめな生徒諸君は講堂に備え付けられた椅子にずらりと並んで着席し、校長の退屈な話にでも耳を傾けている頃だろうか。いや、聞き流している、といった方が真実に近いかもしれない、と僕は思いなおす。しかしそれも僕にはどうでもいいことだ。
 その日、僕は形ばかりの退屈な集会をエスケープして一人屋上に来ていた。屋上は僕が学校内で最も心安らぐ空間だ。
 そこはがらんとした何もない空間で、長い間放置され続けてきたであろう古いベンチがぽつんと端の方にあるくらいだ。そのベンチでさえ現在ほぼ唯一の訪問者ともいえる僕に見向きもされない。こんな広い空間を独り占めしているのにもかかわらず、僕はいつもベンチがある方とは反対側の端にある屋上の唯一の入口となるドアの横の壁にもたれかかって座るようにしていた。それにはれっきとした理由がある。
 この学校では近年の多くの高等学校がそうであるように、生徒が屋上へ昇ることを事故等の理由により禁止している。入り口には常時施錠されているため、本来はこの屋上には誰も入ることができないのである。屋上にいるのを下の階にいる生徒に見つかったり、最悪教師にでもばれたりでもしようものならこの開放的な空間の独占権は失われることにもなりかねない。だから下から見られるのを避けるように壁際に座らざるを得なかったのである。
 このお気に入りの場所を手放さないためにも、僕は慎重な行動を心がけるようにしているのだ。
 一年生の頃、掃除場所として屋上付近の階段が割り当てられた僕はなんとか屋上へのドアの鍵を開けることができないかと、人目に付かない場所だったのをいいことに針金なんかをもってきてはガチャガチャと掃除時間の度に無謀にも思える挑戦を繰り返していた。
 なぜそのときそんなに鍵をあけるのに必死になっていたのかは今ではわからないが、その時僕は必死だった。たぶん暇だったのだろう。情熱を傾けるようなものなんてなかったから。
 少しして、ピッキングの方法をインターネットで調べることを思いついた。簡単な鍵を開ける方法についての知識ならだいたい把握できた(ただしそれを実践したことはほとんどなく、実際にできるかはわからないが)。幸いこの高校の校舎は古くてドアの鍵も古い型であったためピッキングで開けるのもそれほど難しくはなく、僕の初めてのピッキングはかちゃん、という間の抜けた音とともにあっけなけなく成功したのだった。
 その結果、僕は今の利権を勝ち取った。それ以来、屋上は僕の私有空間となった。
 ドアにはこちら側から鍵をかけておいたので、僕と同じようにピッキングでもしない限りここに入ってくることはできないはずだ。ましてや終業式が執り行われているこの時間帯にこんなところにくる人なんかいないだろう。今日は少し早い時間に登校してそのままここまできたから、僕が学校に来ていることなんかみんな知らないだろうし。
 この時間、この場所を邪魔するものは誰もいない。ここは平和な空間だ。
僕は空に浮かぶ大きな雲を眺めながら、今朝の出来事を思い出していた。登校中に一人のクラスメイトを見かけたのだ。
 僕が終業式サボるかなと考えながら校門を抜けると、一人の女子生徒が昇降口前の柱にもたれかかるようにして、一人ぽつんと立っているのに気付いた。
 彼女が登下校の時間に校門や昇降口の辺りに一人突っ立っているのは別に珍しいことじゃない。彼女はそこに立っているときにはいつもその視線をふらふらと漂わせ、誰かを探しているようでもあったし、ただ単に登下校中の生徒をぼんやりと眺めているだけのようにも見えた。以前から度々この行動は目撃されていたし、なにしろ彼女は目立つのでこのことは有名だった。
 だからいつもなら気にするようなことではないのだが、この数カ月は見なくなったような気がするし、こんなに早い時間にいるのは初めてかもしれないとちょっと珍しく思って彼女の方をちらと見た瞬間、目があってしまった。こちらから目を逸らすのは負けのような気がしてそのまま見ていると、相手も逸らすことなくこちらを見てきた。睨むような視線ではなく、ぼんやりと眺めるように視線を交わす。早朝のためか誰もいないため、周りの目を気にすることはない。
 なんでこんなにこっちを見るのだろうと思いながらも僕は目を逸らさない。あるいはあっちも同じことを考えていたのかもしれない。
 結局、僕は校門を抜けてから彼女がもたれている柱を横切るまでの間ずっと目をあわせたままだった。挨拶くらいした方がいいかなとも思ったが、それさえせずそのまま彼女の脇を通り抜けてしまった。
 たいしたことじゃないけど、ちょっと変わった体験だったなと思う。
 あれはなにか意味のあることだったのかもしれないと僕は今更になって考える。なにしろ彼女自身がちょっと風変わりな子だ。もしかしたらあの視線はなにか意味のある視線だったのかもしれない……。
 いや、考えすぎか。クラスメイトとはいえ彼女と僕は一言も話したことがない。なにかあるはずがない、自意識過剰だ。
 僕が少し恥ずかしくなって妄想を振り払い、別のことを考えようと無理やり頭を切り替えようとする。そういえば彼女は僕が学校に来ていたこと誰かにしゃべって…いるはずはないか。彼女は今ではほとんどクラスで口をきくこともない。心配しなくても彼女が余計なことをしゃべったりはしないだろう。
 あぁ、ここはやっぱり平和な空間だ。
 僕はいつものように青い空に浮かぶ白い雲を眺めながら、ふぁぁ、ともう一度暢気に欠伸をする。終業式が終わった後になんて言い訳してホームルームに顔を出すかなぁ、なんて考えていると、ふいに不穏な足音がドアの方から響いてきた。
 ――かつん、かつん、かつん……。
 足音は規則正しいリズムを刻みながら、次第に大きくなってくる。こちらに近づいてきているのだ。
 でも僕は慌てない。今まで屋上に昇ってこようとした連中がいなかったわけじゃない。彼らは例外なくドアをがたがたやった後、諦めてすぐにその場を去っていったようだった(もちろん僕が屋上にいないときに来た人のことはわからないが)。そいつらはきっとかつての僕と同じように屋上の入り口の存在に気付き、入ってみたくなった生徒たちだろうと考えていた。教師や用務員などのちゃんとした理由を持って屋上を訪れる人なら鍵をもっていて開けることができただろうから。
 今回来たのはきっと終業式をエスケープしてきた奴だろう。
 僕が耳をすませてドアの向こうに注意を向けると、足音の主はドアの前で止まり、かちゃかちゃと小さな金属音たて始めた。ドアをがたがた鳴らすことなくすぐに鍵をいじり始めたということは、鍵がかかっていることを知っていながらここにきたということなのだろうか……? しかし、ちゃんとしたピッキングの技術を知らない限りそうそう開きはしまいと、僕はのんびり構えていた。
 ――かちゃん!
 小気味良い音に僕は情けないことにビクッと反応してしまった。いつも聞いているからわかるが、間違いなく鍵が開いた音だ。やばい生徒じゃなかったのか。今更になって慌てて隠れようとする(というか隠れたとしてもすぐ見つかっただろうが)が、しかし、いつもは擦りガラスの窓がこちら側にいる僕の姿を遮ってくれていた屋上のドアは、今回ばかりは無情にもがらがらと音を立てながらスライドして開いた。
 ――かつん!
 先程よりもひと際甲高い足音が響く。スライド式のドアの底に敷かれた金属とローファーの靴底がぶつかった音だろう。腰を浮かせる最中に思わずドアの方を振り返った僕は、その中途半端で無様な体勢のまま固まってしまった。
 そこには一人の女子生徒がドアの底の金属部分に足をかけたままドアから身体を半分だけ覗かせ、顔を小さく傾けてこちらを見降ろしていた。卵型で乳白色の透き通るような肌、それを縁取る長くて真っ黒で艶やかな髪が風に小さくなびく。顔の中心には筋の通った小さく慎ましげな美しい縦のライン、その下には横に引いた上品な紅のラインが軽く結ばれている。そして何より印象的なのがその瞳だ。有為の色を帯びながらも、無為の気配を感じさせる。身を震わせる高揚の中にありながら、冷たく醒めきっている。強い意志を秘めながらも、孤独に心惑わせている。歓喜の予感に期待しながらも、悲哀の恐怖に震えている。少し三白眼がかった切れ長で涼しげな瞳は魅力的で、魅惑的であるが故に恐怖さえ感じさせる。
 その瞳が、僕の瞳を怖いほど真っ直ぐに捉えていた。
 しかし僕は不思議と恐怖を感じることはなく、その瞳に魅了されることもなく、ただ彼女の瞳を見ていた。何が僕を惹き寄せるのかはわからなかったが、僕は夢中になって彼女の瞳を見ていた。
 そして無表情だった彼女が唇の端を歪ませ、微かに笑った。
「やっぱり貴方は完璧ね」


 第2章

 足音の主はぼくの知っている人物であった。というか彼女はこの学校の生徒なら知らない者の方が少ないのではないかと思われるほどの有名人だった。
 彼女はかつての貴族の血をひく家系の令嬢ではないかと噂されており、その噂に違わぬ楚々とした美しい身のこなしとその美しい容貌と、おまけにずば抜けた成績とで入学当初からやたら周囲の目を集める存在だった。男女学年問わず彼女の魅力に魅せられる生徒は多く、彼女に仲良くなろうと少なからず数の生徒が彼女に近づいていったが、その多くは一週間ももたなかったらしい。彼女が彼女に近づく生徒を拒んでいるのではなく、彼女に近づいた生徒が彼女と一緒にいることに耐えられなくなるというのだ。
 僕が噂に聞いた話によると彼女の瞳がその原因らしい。彼女と目をあわせるとこちらの考えが見透かされるというのだ。見透かされるような感じがする、ではなく、見透かされる、だ。彼女と話をしているときに彼女に言えないようなやましいことや、進行中の話題と関係ないことがふっと頭によぎると、例外なく彼女からはその考えに対してのものだとわかるリアクションがくるという。そういうとき彼女はいつも無表情にまっすぐこちらの目を射抜くように見つめていて、その瞳が怖いと言って彼女から離れる人が多いのだという。どう怖いのかという質問に対する答えも概して漠然としたもので、ただ不気味で居心地が悪いというものが多い。彼女が微笑んでいるというのに隣の生徒は彼女と目もあわせられず青ざめているという光景は、傍から見れば奇異に映るのだが、彼女が取り繕っているところは見たことがない。彼女はいつでも超然としていた。
 もちろん彼女が積極的に誰かと仲良くなろうというような行動をとることもない。
 その結果、彼女の周りにはあまり人が寄りつかなくなり、誰かと親しくすることもない代わりにいじめられることもなく、そのくせ妙に存在感があるという独自のポジションを得るに至ったのである。彼女をそこに鎮座させ、クラスの安寧を図ろうという不文律は一年の夏にはほぼ完成し、二年に進級後の現在のクラス(僕が所属するクラスだ)でも引き継がれている。
 教師たちもその空気を察し、彼女に対して差し障りのない対応をとっている。
 今でもなお彼女に近づこうとする輩もいなくはないが(その多くは他のクラスの生徒である)、結果はいつだって変わらなかった。
 そういうわけで、彼女は孤立してはいるが独特の存在感を放つ異邦人となったのだ。
 そんな彼女の唐突な登場に僕はその場で固まってしまった。
 僕は彼女の瞳に見とれてしまっていた。クラスメイトとはいえ彼女と口を利く機会など今まで一度もなく、遠くから何度か目があったことはあったが、こんな手を伸ばせば容易に触れることのできるほどの距離で見つめあうことなんかなかった。しかし僕はいやらしい気持ちで彼女に見とれていたわけではない。こちらを真っ直ぐに見据える彼女の瞳に宿るただならぬなにかの気配が感じられたからだ。それがなんなのかはわからないが、何故か僕はそれに引き寄せられるものを感じずにはいられなかった。
「やっぱり貴方は完璧ね」
 彼女の言葉で我に返った僕の脳裏にいくつかの疑問が浮かび上がってきた。彼女がなぜこんなところに来たのだろう? 彼女は僕がここにいることがわかっていたようだが、なぜそのことを知っていたのか? また彼女がさっき言った完璧とはどういうことだろう?
 僕がそれらの疑問を口にするより先に、微かな笑みを保ったままの彼女が口を開いた。
「少々混乱しているようね。とりあえずそこに座らない?」
 先を越されて思っていたことが口に出せずもやもやした気持ちは残ったままだったが、とりあえず彼女の言うことに従う。
「……あぁ、そだね」
 僕がいつものように壁を背にして座ると、彼女も僕の右隣に同じようにして座る。
 いつもと同じ場所なのにいつもと違う状況に、落ち着かなさと緊張を感じながら、なんとなく途方に暮れてしまう。この状況はなんだろうとじれったく思いながらも、それを知ってしまうのが少し怖いような楽しみなようなでドキドキする。目のやり場に困って意味もなく空に浮かぶ雲を眺めてみる。
 と、ふいに彼女がくすっと笑う。僕が彼女の方をちらっと見ると、やはり目があった。
「ごめんなさいね、驚かせて」
 と言うものの、悪気なんてまるで感じてないかのようだ。しかし僕の方もそのことで気を悪くしたわけじゃない。ここで真剣に謝られてもこっちが対応に困るだけだから表面上だけの謝罪で十分だった。
「それは構わないけど……」
「じゃあ、一つずつ説明していくわ」
 彼女は僕の言葉の意図をすばやく理解したらしく、間髪いれずにそう言った。彼女が何を説明しようとすることが僕の疑問を解決するものかはわからないが、とりあえず彼女の言葉に耳を傾けることにする。
「まず私がここに来たのは、あなたに用があったからよ。もちろんここの鍵はあなたと同じようにピッキングして開けたわ。これを使ってね」
 とヘアピンをポケットから出してみせる。
「なんで……」
「まだよ」
 彼女は右手の人指し指を僕の唇にすっと当てて、僕の言葉を静かに遮る。それは小さい子供にシー、と静かにするよう言い聞かせるような仕草だった。横から身を乗り出すようにしている彼女の長くしなやかな髪が僕の肩にかかる。彼女の顔が僕の顔のすぐ目の前にあった。
「……!」
「……ふふっ」
 彼女は小さく笑みを浮かべながら元の通りに座りなおす。
「まだ私の話が済んでないわ。質問は終わってからにしてくれない?」
 そう言う彼女の言葉にはその内容とは裏腹にイラつきが全く感じられず、まるでバケーションの予定を提案するかのように楽しげな口ぶりだ。
完全に彼女のペースだった。
 しかし僕は頷くしかない。せめてもの意地と何でもないように振舞ったが、彼女に通用したようには自分でも思えなかった。
「わかった、じゃあ続きを」
「ありがとう」
 彼女は短くにそう言っただけだったが、それがなんというかすごく誠意のこもった言い方であったので僕はさっきまでとの彼女の様子のギャップに少々面食らった。彼女はそんな僕の様子に気付いていたようだが、特に言及することはなかった。
 彼女はわざとらしく、こほんと咳払いをする。話を始めるのかと僕は彼女の方を向く。俯き加減の顔はほんのり紅潮しているようにも見えることに気付く。
 彼女もいくらか照れ臭かったのかもしれない。
彼女は空を仰ぎ見る。その表情は先程よりいくらか引き締まっているようだ。
「私がここに来られたのは、貴方を探し回って偶然辿りついたわけでも、貴方の後をこっそりつけて来たわけでもないの。貴方がしょっちゅうここに来ていることを、そして終業式をサボってここにくることを、私は知っていたの」
 彼女は一音たりとも疎かにしない丁寧な発音で、一気に喋った。
 僕はその内容にいくつかの疑問を抱かざるを得ない。
 知っていた? 予知能力でも持っているとでもいうのだろうか? そんな馬鹿な。
「そんな馬鹿なのよ、私は。もっとも、予知能力ではないのだけれど」
「えっ?」
 思わず声が出てしまったことに気付き、僕は慌てて口を抑える。
「驚くのも無理ないわね」
 そう言う彼女の表情は一見したら微笑んでいるように見えるが、その瞳だけは真剣そのものだった。
 彼女は目をつむって深呼吸をし、それから僕の瞳をまっすぐに見据えた。その表情にはなにがしかの決意が感じられ、凛とした魅力を纏っていた。
 彼女が静かに口を開いた。
「私はね、人には無いある特殊な能力を持っているの。俗に言う超能力。大雑把にいえば他人の心が読める能力よ」
 僕は思わずぽかんとした表情で彼女の顔を見つめていた。彼女の言葉の真偽はわからないが、それが本当ならば彼女についての噂話や今日の言動についてうまく説明することができるかもしれない。だが僕にはその話の真偽なんぞを考えるほどの余裕はなかった。
 僕はあっけにとられていた。話の内容そのものよりも、全校生徒の注目を集める美少女から超能力を持っているという突拍子もない告白をされるというこの浮世離れした状況に、僕はあっけにとられていた。
「驚いているところ悪いけど、話を続けるわ。私の能力と言うのは厳密にいえば、他人の現在の主観を共有することができる能力よ。私が共有することができるのは人が考えていることだけじゃないの。他人の現在の主観のほぼ全てよ」
 主観? やはり僕にはピンとこない。
「やっぱり抽象的な説明じゃ、わかりづらかったわね。具体的に話をしましょう」


第3章

「例えば貴方がピロシキを食べて『うまい』って思うとするじゃない。貴方が『うまい』って思っていることは貴方がそう口に出せば他の人にもわかるでしょ?」
 ……なぜ僕がピロシキ好きなことを知っているのかについては置いといて、まぁ、その通りだ。
「でも貴方がどのような美味しさを感じているのか、つまり味覚ね、またどのように『うまい』という感触を楽しんでいるのかを他人に伝えるのは難しいわ。辛いカレーを食べて辛さが後を引く感じとか、寒い冬に温かい飲み物を飲んで熱がじわーっと身体に広がっていく感じとか、甘いチョコレートを食べてほっと落ち着く感じとか、そういう感覚ってそれを実際に感じている本人しかわからないものじゃない? そういうものってみんなが体験したことがあるものだから自分の経験を重ねて、『他の人もこんな風に感じているんだろうな』って想像するしかないようなことよね。だから貴方がどんなに必死に大好きなピロシキの味やそれを食べることで得られる幸福感を熱弁したところで、結局貴方以外の他の人は自分の経験をもとに想像するしかないのよ」
 ……なぜ自分がピロシキ狂いな人間であることがばれているのかは置いといて、まぁ、話はわかる。それにしてもなぜこの街にはピロシキを売るパン屋さんがないのか。大変遺憾だ。
「これは実は五感に関しても言えることよ。あの空は青いわね? でもあの青さがどんなものなのかを貴方は自分以外の他人とは決して共有し合えないわ。ああいう色のことを青と呼ぶことは誰もが知っている。けれど青がどんな色なのかを他人と共有することはできないのよ。あの空を指して、『あれが青だ』と言ったところでそれが他の人にどういう風に見えているのかは結局のところわからないし、『憂鬱を思わせる色だ』だなんて説明しても、それは青という色がどういう色かということには本質的に関係がないわ。私の話、わかるでしょ?」
 彼女は確認するように問いかける。しかし確認する必要がないことは彼女にもわかっているようだった。
 僕は小学生の頃、彼女の話に似たことを考えていたことがあったのを思い出した。
 当時、なんでみんな好きな色が違うのかが不思議だったのだ。
 みんな見える色が違うんじゃないかと考えていた。
 僕には赤に見える色が、お母さんには僕が青に見えている色に見え、お父さんには僕が黄色に見える色に見える。
 僕には青に見える色が、お母さんには僕が黄色に見えている色に見え、お父さんには僕が赤に見える色に見える。
 僕には黄色に見える色が、お母さんには僕が赤に見えている色に見え、お父さんには僕が青に見える色に見える。
 そんな風にして互いに同じ色を見ているのに違う色を見ている。
 でも僕には赤に見えている色をお母さんの世界では黄色と呼ぶことになっているし、お父さんの世界では青と呼ぶことになっている。僕には青に見えている色をお母さんの世界では赤と呼ぶことになっているし、お父さんの世界では黄色と呼ぶことになっている。
 だから同じ名前で呼んでいる色が他の人には違う色に見えていることに誰も気づかない。
 黄色が好きな僕も、青が好きなお母さんも、赤が好きなお父さんも、実はそれぞれが見えている色自体は同じ色なんじゃないかと。
 そんなことを考えていたことがあった。
「つまり、そういった主観でしかわからないために他人とは共有し得ないものも共有することができる、と。そういうことなのか?」
「ご明察。まぁ、それだけじゃないし、能力にも限界はあるけどね」
「うーん、といってもそれは具体的にどんなことが可能なんだ? 例えば僕が今この目で見ているものを俺の視覚を通して見えたりするのか?」
「ええ、見えるわ」
 彼女があまりにも当然といった風にいうので僕は茫然としてしまった。
 え? それって僕が見ている世界が〜とかいうような、比喩的な意味ではなく? あくまで視覚的な意味で?
「あくまで視覚的な意味で。むしろ貴方が見ている世界を見る方が難しそうよ? まぁ不可能じゃないけど」
 彼女がクスっと笑う。
 確かにその通りだ。……ってできるんかい。
 そういえば、いつの間にかナチュラルに思考読まれてるな。別にいいけど。
「いいでしょ?」
 えらくかわいらしい声を出すものだと思っていると、気が付いたら彼女の顔がすぐ目の前まであったので、一瞬にして思考が止まる。無邪気そうな笑顔を浮かべてはいるが、彼女の場合は絶対わざとだと僕は確信する。
「ご明察」
 彼女がにやりと笑う。見事な表情の変化だと言わざるを得ない。
「……それで? さっき言った『それだけじゃない』ってのは?」
 僕が話を戻そうとして尋ねると、彼女もそれ以上僕をいじめる気はないらしく元の通りに僕の隣に戻った。
「最初に話した通りよ。私は他人の現在の主観のほぼすべてを共有することができるのよ。さっき話したように五感を共有することができるし、それに付随する心の動きもわかるし、何を考えているかもわかるわ。これは言語的な情報に限らず、視覚的なイメージを思い浮かべているならそれもわかるし、何らか感情を抱いているのならそれもわかる。何も考えずにぼーっとしているだけなら、そのぼーっとしている感じまでわかるのよ。とにかく意識上に上った主観ならほぼわかるわ」
「そのほぼっていうのは?」
「意識と無意識の境界に位置するようなものは微妙なのよ。例えばプロ野球選手がボールを打つ時、投手のフォームやボールを見て瞬間的に判断してタイミングやスイングを変えるわけじゃない。でも、あれは意識的に『ちょっと待ってから……』とか『肘をこのくらい引いて……』とか考えているわけじゃないでしょう? せいぜい『こうきたからこう!』みたいな大雑把な思考しかしていないんじゃないかしら。そのときの『こう』の内容は頭じゃなくて身体で覚えているからすぐ出してこれるわけよ。そうじゃなきゃ間に合わないものね。それでそういうときの身体感覚や選手の必死さとかはわかるのよ。でも身体で覚えている動きを引っ張り出してくる感覚というのかしら、それが意識と無意識の境界にあるのよ、たぶん。だから、はっきりとはわからないわね。まぁ、本人ですらはっきりと意識していないことでしょうから、たいした差はないのでしょうけどね。あれってほとんど脊髄反射みたいなものじゃないのかしら」
 また細かいことをあげつらうものだ。そんなのは誤差の範囲で全てって言いきればいいものを。
「完璧主義者なのよ」
 彼女はなぜか誇らしげにそう言った。


 第4章

「それでその能力の有効範囲はどのくらいになるんだ? まさか地球上の全ての人間の主観がわかる、ってわけでもないんだろ?」
 そう尋ねながらも、彼女のことだから、できるわ、とか言い出さないかと内心ひやひやしていた。その頃には僕はもはや彼女の能力のことを信じてしまっていた。実際に何度も頭の中を看破されていたし、それに彼女がこんな親切丁寧に大嘘つくような狂人には思えなかった。
「さすがにそれは無理よ」
 彼女がふっと笑う。
「せいぜい教室くらいの広さが限界よ。それに複数の人を一度にするとかなり曖昧にしかわからなくなるわ。一人の人間に絞るにしたって相手の瞳を見るか、私がかなり意識を集中するかしなければ、八割くらいがいいところね。」
 以外と控えめな答えに安心するが、それでも十分すぎるのではないかと思う。
「あ、それで瞳を見るわけね」
「そういうことよ」
 噂の真相解明、だ。
「その他、強い感情というのは拾いやすかったりするわね。これは自分でそうなるように訓練したんだけれど、私に対する悪意には敏感になったわね。それから共有の遮断や程度の調整はある程度は意識的にできるわ」
「遮断? あぁ、嫌なこと考えている奴がずっと目の前にいると困るんだな」
「それだけじゃないわ。物凄く痛い思いをしている人が近くにいる時、自分までその痛みを味わっていたんじゃ困るから、そういう時は意識的に遮断するのよ。考えていることはそのまま共有できるようにしながら、痛みだけをね。逆に気になることを考えている人がいるときはそっちに意識を集中してより深く共有させてもらうのよ」
「へぇ、じゃあ同じ場所にいても共有する相手も内容も程度も自分で選択することができるのか」
「そういうことよ」
 そう言って、なぜか彼女はシニカルな、それでいていくらか愁いを帯びた表情を浮かべた。
 彼女は自分の足元をじっと見つめたまま黙る。僕は彼女の様子が気になってそんな彼女を見つめる。みんなの心がわかる彼女はいったい何を考えているのだろうか。それは誰にもわからないだろう。そういうのって孤独じゃないのかな。空の上で全てを見渡す神様みたいに。
「この能力があるとね」
 彼女が僕の思考を読んだのだろう、暗い表情で呟く。なんとなく見ていてはいけないような気がして、僕は彼女から目を逸らす。
「この能力があるとね、……カンニングし放題なのよ」
 僕がばっとを振り返ると、彼女は得意のにやっとした笑みを浮かべていた。
「……それはずるいよ」
 二つの意味で、だ。
 彼女はくっくっく、と俯いて笑っていたが、やがて堪えられなくなったのか、あはははは、と大きな口を開けて笑い始めた。僕も彼女の気持ちいい笑い声につられてついつい笑ってしまった。
 しばらくの間、二人して目尻に涙を浮かべながら大笑いした。
 やがて笑いがおさまってくると、彼女がまだヒーヒー言いながらなにか言おうとしている。
「あのね、ふふっ。これから大事なこと話すんだけどね、ハハハ。私……」
「ごるぁぁぁ!こんなとこで何してんだぁぁぁ!」
 勢いよくドアを開ける音とともに体育教師の怒声が響く。
 思わず僕らはビクッとして、お互いに目をあわせた。
 彼女の瞳はまだ笑っていた。


 第5章

「イデアという言葉を知っているかしら? へぇ、貴方意外と博識なのね。そう、プラトンが唱えたイデア論、そのイデアよ。あれって変な理屈よね。例えば誰かが真実の愛について議論しているとするじゃない? これが真実の愛だ、いーやこっちこそが真実の愛だって、言い合うわけよ。でもこの議論って、議論している人たちがたまたま真実の愛について同じ見解と持ち合わせていない限り答えはまとまらないし、そうして出た答えなんてまた別の人が違う意見を持ち込めばまたまとまらなくなるわよね。そうだとしたら愛のイデアはいったいどこに存在するのかしら? 愛のイデアが存在するのだとしたら、おのずと真実の愛についての議論は一つの答えに収束して然るべきじゃない? 人々にはイデア界に存在する愛のイデアを見ることができないから知らない、だから答えはまとまらない、なぜならこの世はイデアの影が映し出された洞窟の中に過ぎないから、という反論が予想されるわね。でも誰も見たことがなく知ることができないイデアなんてものが存在するとどうして言い切れるのかしら。人々が持つ真実の愛についての見解はそれぞれ異なるもののはずだわ。にもかかわらず、イデア界に愛のイデアが存在するから真実の愛というものを我々が想起することができるのである、という理論はおかしいわ。だって全ての人が全く同じ真実の愛を想起することはできていないわけでしょう? だとしたら、イデアと呼ばれているものは、人々がそれぞれに共有できていると勘違いしている個別の妄想の寄せ集めに過ぎないんじゃないかしら? それぞれがそれぞれの愛のイデアを思い浮かべ、それに基づいて真実の愛を語るわけよ。でもそのそれぞれの愛のイデアは結局その人にとっての愛のイデアでしかありえないわけで、普遍性を持たないそれぞれのイデアはもはや何の意味も持たない妄想に過ぎないんじゃないかしら。イデアは存在しない。この世が洞窟ならば、その洞窟内に存在しないものは結局は存在しないものなのよ。『語ることのできないもの、これについては沈黙しなければならぬ』……ルートウィヒ・ウィトゲンシュタインの言葉ね。このシンプルな言葉の方が私にはしっくりくるわね」
 ふいに長々と語り始めた彼女だったが、僕は頭がこんがらがってきて途中から考えることを放棄していた。しかし彼女は当然把握しているであろう僕の態度について不満はないらしく、最後まで語りきったようだった。
 ただ単に哲学を語りたくなった、というわけでも取りとめのない話を誰かに聞いてほしかったというわけでもなさそうだった。彼女がこんなに長々と話したのには何か理由があったのだろうと思った僕は、黙って彼女の目を見ていた。彼女はしばしの間僕の視線から逃げるように視線を空中に泳がせていたが、やがて観念したというように目を伏せ、西洋人がやるような大げさな仕草で手を広げてやれやれ、とでもいうかのように首を振った。
「読者さぁびす、よ」
 かつてここまでまどろっこしくて一般ウケしない読者サービスが存在しただろうか。
「媚を売っているのよ。私にこの科白を言わせている人間がへたれなのよ」
 彼女は楽しそうだった。それが誰なのか僕が口に出すのは野暮だろう。
話がおかしな方向に行ったついでに僕から一言、イデア論を知らないという読者諸君はこれを機に調べてみてはいかがだろうか。以上。
 ……閑話休題。
 あのあと僕と彼女は終業式をサボって立ち入り禁止の屋上にいた罰として反省文と奉仕活動(中庭の清掃)を課されることとなった。屋上で二人きりで何をしていたのかについて問われることはなかったが、説明する機会がないとなると噂は好き勝手にその内容を変え校内を飛び交うことだろう。なにせ彼女は学校中の有名人だ。
 明日から夏休みなのは幸いだった。いち早くみんながこのことをきれいさっぱり忘れてくれることを願おう。
 中庭の清掃はいろんな意味で辛かった。なにせ中庭は中庭と言うだけあって校舎に囲まれた場所にあるわけで、昼過ぎで校内に残っている生徒は少ないとはいえ、いい晒し者だったのだ。おまけに季節は夏真っ盛り。どうせ夏休み中に業者さんが来て草刈りするのにこんな地道に雑草抜いたところで何になるというんだか。
 空高く昇った太陽がジリジリと照らしつける中、延々と作業は続いた。
清掃が終わり、職員室の端っこで反省文を書き終えるとやっと解放された。
せっかくの夏休みの始まりの数時間をこんな風に過ごすことになるなんてついてない。疲れたし、今日はさっさと家にでも帰ってごろごろするか。そう思い昇降口を出たところで僕は立ち止まった。
 そこには今朝を再現するかのように彼女が立っていて、僕が彼女の存在に気付いた時には彼女はこちらを向いていて、やはり目があった。しかし今朝とは違って彼女はこちらに歩み寄ってきてひとこと言った。
「話の途中だったわね。どこかゆっくり話せるところはないかしら?」
 僕に予定がないことはバレバレか……。というか僕が断るかもしれないという考えはないのか? いや、ないか。なにせ相手は彼女だ。
「白水公園にでも行こうか?」
 こうして僕と彼女は二人して近所の池の周りに作られた公園に向かうこととなった。


 第6章
「で、ネタはともかくとしてさっきの話はなんだったの?」
 まさかネタ提供のためだけにあんな長い話につきあわせたわけではないだろう。
「え、何のことかしら?」
 他人の考えがわかる人間が何とぼけてるんだか……。
「あら、それはちょっと酷くない? 差別よ。私のとぼけたいという自由意思を著しく踏みにじる思想だわ」
「いいか、日本国憲法では思想・良心の自由というものがあってだな、いかなる思想・良心もそれが内心にとどまる限りは絶対的な自由が保障されている。というかとぼけたことは否定しないんだな」
「私のことを考慮に入れない憲法なんて知らないわ」
 彼女は開き直ったように毅然とした態度でそういった後、くすくす笑い始めた。しまった、まんまと彼女のペースに乗せられていた。
「ああもう、今はそんな話いいから。ほんとのところはなんだったの?」
「照れ隠しよ」
 まだ笑っている彼女がまるで他人事のように実にあっけらかんとそう言った。
「えっ?」
「だから照れ隠しよ」
 やはり照れもせずに彼女がそういうので、僕は真偽のほどがわからずまじまじと彼女のことを見ながら、そんな顔で照れ隠しですと言われてもと考えていると、彼女はなぜか立ちあがり、両膝を合わせて膝から下を両側に広げるという実に女の子らしい座り方に座りなおした。
「て……照れ隠しって言ってるじゃない……。何度も言わせないでよ、……馬鹿」
 真っ赤にした顔は恥ずかしそうに俯いていて、肩には力が入っているのかややいつもの位置より少し持ち上がっていて、手や足は落ちつかなげにそわそわと意味のない動きをしている。ポイントは『馬鹿』という言葉をかろうじて聞き取ることができるくらいの小さな声で囁くようにいうことだ。
 ……よし認めよう。かわいいです。
 でも僕は知っている。間違いなく僕は彼女におちょくられている。
「……サービス、サービスぅ」
 いつの間にか普段の顔に戻っていた彼女がぼそっと言った。僕は何も言い返せなかった。
「ごめん……って言っても本気で謝る気はないけどね。一応形式として、ね」
 僕も見事に彼女の術中にはまった身としては、本気で謝られても、といったところだ。どこまでも彼女の思いのままというわけか。
「でも照れ隠しっていうのは本当よ」
 その言葉も信じていいのやら怪しいものだ。
「ねぇ」
 彼女が僕の瞳を覗き込んだ。
「私は貴方に対してだけは誠実でありたいと思っているのよ」
 彼女が真剣な表情で吐くこの科白は、どうして僕をこんなに信用させるのだろうか。彼女には今日だけで何度もからかわれているというのに。この科白自体、都市伝説かなにかの類かと思われるほどクサい科白だというのに。そうさせるのは一種のカリスマ性すら感じさせる彼女の容姿や雰囲気によるものか。いや、きっとそれだけじゃない。
 僕は彼女の瞳を覗き込んだ。そして気付いた、あの瞳だ。
 それは多くの矛盾した感情がない混ぜになった、あの瞳。彼女が屋上に現れたときのそれだ。
 そうだ。この瞳を僕は信用したのか。最初からそうだ。僕は彼女が屋上に現れたそのときから、わけもわからずにこの瞳に惹き寄せられていたんだ。
「私の言うこと、信じてくれたわね?」
 彼女があくまで確認、というように彼女がゆっくりした口調で僕に問いかける。
 僕は黙って頷いた。
 沈黙が訪れた。でもそれは決して重苦しい時間ではなかった。
 彼女が今何を考えていて、これから何を言おうとしているのか。僕にはそれがわかるような気もするし、わからないような気もする。しかし彼女がこれから何を言おうと、僕はただそれを信じて頷いていればいいのだ。
 彼女は信頼するに足る。彼女の瞳を見てそれがわかった。もしそれが僕の勘違いだったならば黙って騙されればいい。例え演技だとしても、あんな瞳をできる人になら騙されても仕方ないと諦めもつく。僕は彼女の言葉を待った。
 彼女が小さく口を開いた。微かな彼女の息遣いが二人の沈黙を破った。
「私は……」
 どきどき。まさか、これは……!
「私は、貴方のことが……」
 キターーー!僕の頭の中で血管が弾け飛ぶ音が確かに聞こえた!歓喜に沸いた僕の脳内で、いや身体全体にあのメロディがファンファーレとして鳴り響く!!エンダアアァ……!
「待ちなさい」
「はいっ」
 彼女の厳しい口調に思わず裏返った声で答える。
「早まらないで頂戴。最後まで聞きなさい」
「……はい」
 しかし心の叫びにダイレクトで突っこみを入れてくるとは、なんてやつだ!侮りがたし!
「はいはい、侮らないでくれていいわよ。もう」
 むしろ呆れたというように肩をすくめて彼女は言う。
 うわぁ、ここまでくるとむしろ開き直らないとやっていけないわぁ。
「そうね、それがいいかもね」
 彼女がふいにくすっと笑う。
「ねぇ、それはこれから貴方が私と友達として付きあってくれるということかしら?」
 挑発的な瞳はそれでも期待に満ちていて、彼女のような能力がなくても何を考えているかはまるわかりだった。
「もちろん、いいよ。……確認しなくてもわかるでしょ、そんなこと」
 僕は照れ隠しにそんなことを言う。
「いくらわかっていても確認することは大事なのよ。貴方だって勝手にそういうことにされたら、今は良くてもいつか不愉快な思いをする時が来るかもしれないし。それに……」
「それに?」
「貴方の口から直接聞きたかったの。ありがとう」
 弾んだ声でそういう彼女は僕が今までに見たことのない最高の笑顔で僕を見ていた。
 その笑顔を見ている僕の顔にも自然と笑みが浮かぶ。
「あ、見て。綺麗」
 彼女の指差した方を見るとそこには真っ赤な夕日が浮かんでいた。空だけじゃない。正面に広がる池の水面に反射した太陽が水面の波紋にあわせてゆらゆらと揺らめいている。
「あぁ、ここはこの公園で一番綺麗に夕日が見える場所なんだよ。いいでしょ。僕のお気に入りの場所なんだ」
  えっ、と小さく驚く。しかしすぐに僕の考えを理解したみたいで納得顔で頷く。
「すごい、貴方は特に何も考えずにここまで私を連れて来たけど、貴方はよくここに来ていたのねっ」
 珍しく彼女は興奮気味だ。どうしてそんなに彼女のテンションがあがったのかはわからないが、僕はとりあえず頷く。
「素敵、私にサプライズプレゼントをするなんて、貴方が初めてよ。そんなことが可能だなんて思いもしなかったわ」
「そんなプレゼントなんてものじゃ……」
「ありがとう」
 そこまで言われるとこっちも嬉しくなってくるから不思議なものである。素直に感謝されておくことにしよう。
「……うん」
 それから太陽が沈むまでのわずかな時間、僕らは何も言わずにその風景を眺めていた。僕がちらっと彼女の方を見たとき、その頬が赤く染まって見えたのは夕日のせいかもしれないし、そうじゃないかもしれない。彼女のような能力があればそれがわかるのかもしれない。でもそれは今は必要のない力だ。彼女は特殊な能力を持ちながらも、普通な僕と友達になろうとしてくれた。そのことにはきっと意味があるのだ。そんな能力がなくたって僕にわかることはたくさんある。だから僕を選んだ彼女を信じればいいのだ。
 夕日が沈む。その瞬間を僕は、いや僕と彼女は、名残惜しく思いながらもしっかり目に焼き付けようとした。
「沈んじゃった」
「うん」
「じゃあ行きましょうか」
「ん、帰るの?」
「何言ってるのよ、夏休みは始まったばかりなのよ。楽しまなきゃ。……今度は私からプレゼント。駅前にできたパン屋さん行ったことないでしょ?」
「ないけど、……え?まさか……」
「そう、そのまさかよ。さぁ、行きましょう」
 僕らは駆け出した。
 僕らの夏休みはまだ始まったばかりだ。


 エピローグ

「しかし不便なものよね。愛のような抽象概念について語り合うとき、人々は愛のイデアなるものを通して話さなければならないけれど、これって日本語を母国語とする日本人と中国語を母国語とする中国人がお互いの言語を理解することができないから、どちらもが共通してある程度までは話すことのできる英語を通してコミュニケーションするような、そんな遠回しなじれったい感じがしない?」
 僕らはパンが入った袋を手にさげて昼下がり繁華街を歩いていた。向かう先は白水公園。今日もまだまだ暑くなりそうだった。
「またイデア論の話? まだその話引きずるの?」
「いいえ、私たちの話よ。私ならイデアなんかに頼らず貴方の愛のイデアを直接認識することができるわ。最強じゃない? 私たち。世界の限界を軽ーく飛び越えているわ」
「なるほど、それが言いたかったのか」
 そういえばもう一つ彼女から聞いていないことがあった。終業式の日に彼女は僕に何を言おうとしてたんだろう?
 僕が彼女の方を振り向くと彼女はぷいっとそっぽ向いてしまった。
 いつになったら聞かせてくれるんだろうか? でも焦ることはない。いつだって聞くことはできるだろう。現に彼女はこうやって僕の隣を歩いているのだから。
 ふと僕が気付くと、隣の彼女はにこにこしてこちらを見ていた。
ひや 

2010年12月31日(金)23時50分 公開
■この作品の著作権はひやさんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
初投稿です。ギリギリの投稿すみません。
自分なりの萌え美少女が書けたらいいなと思い書きました。
哲学についてはいろいろどうかと思う箇所があるとは思いますが、それはそれで。
感想、批評等何かあれば是非是非。


この作品の感想をお寄せください。

2011年02月11日(金)12時54分 ひや  作者レス
真柴竹門さんレスありがとうございます。
退屈な冒頭にも関わらず最後まで読んでいたただいて感謝感謝です。

まず細かいご指摘ありがとうございます。

ご指摘されるよう、確かに1章はダメダメですね。
たるくて退屈な日常の雰囲気を導入として持ってこようとかいたものの、読者にとっても退屈なものになってしまった上、その後の展開に生かされることもないという。
当初もっと長い話を予定して書き始めたものの、最終的に存外こじんまりとした作品になってしまった、というのがその一因かと。
じゃあ、投稿前に直せよっていう話。
退屈な思いをして読んでくださった読者の方には申し訳ないです。

ネタに関して、楽しんでいただけたようでなによりです。

分量は確かにもっと膨らませられると思いますね。単純に登場人物増やせばそれは可能だとは思いますし。
原稿用紙100枚の制限考えるとこんなもんかな? と思いながら書いてこんな感じに落ち着きました。あと一人強烈なの持ってきたら、増えるエピソードの数が1つや2つじゃ済まなくなりそうですから。

共感覚の小動物系少女VS主観超能力彼女!!
とか考えてたんですが、これじゃいつ終わるのか作者にも想像がつきません(笑)

彼女が主人公を選んだ理由とかも本当は書こうかと考えていたんですが、短編なら敢えて細かいとこ触れないで、曖昧なまま受け入れてくれる主人公、とした方が収まりいいかなと途中で思い直してやめました。大幅に短くなったのはそのせいですね。

改めて、長々と有益なご意見ありがとうございました。

では。

pass
2011年02月09日(水)22時31分 真柴竹門  +30点
はじめまして、真柴竹門です。「完全解読 カント『実践理性批判』」(竹田青嗣)をちょっと立ち読みしてみて『機会があったら最後まで読んでみたいな』と思いながら感想を執筆です。
えっと本題に入る前に、まずは細かーい指摘から。行頭下げが出来てなかったり、行頭下げを二回もしている箇所を示しておきます。

>僕は空に浮かぶ大きな雲を眺めながら、
>完全に彼女のペースだった。
>彼女は空を仰ぎ見る
>話がおかしな方向に行ったついでに僕から一言
>清掃が終わり、
>せっかくの夏休みの始まりの

>  えっ、と小さく驚く。


さて、それでは感想に移りましょう。辛口から甘口評価といった感じで書きます。
この作品は、出だしがちょっと問題ありますね。凄く丁寧に描かれてるんですが、主人公の性格やら内面やらを描写するには、あまり効果的に発揮されておりません。
第1章を削りに削って必要なデータだけ残そうと思ったら、文字数は本当にかなり縮小されそうです。何故なら、ここの描写が後々の伏線にもなってるわけでもないからです。
また校門での哲学的彼女と出会うシーンも、それほど面白みがありません。第一章全体にある地の文と出会いのシーンとが大差ない描写だから、パワー不足と言いますか。せめて、このシーンだけでも「空行(空白行)」を使って表すのも手じゃないでしょうか?
でも「――かちゃん!」とドアが開くシーンは、ちょいとスリルがありましたけどね。あと第1章で唯一のセリフである「やっぱり貴方は完璧ね」も、ワケワカメすぎて読者の気を引くことが出来てます。
しかし、それでも第一章全体はこれといって気の利いた言葉づかいでもない地の文だけで構成されているから、読者はこの辺で退屈してしまい、下手したら読むのをやめてしまうかもしれません。第2章前半のヒロインの外面を説明するあたりも、凝りすぎてて逆によくわからなくなってしまっています。
それが非常に勿体無いのです。本作が面白くなってくるのは第2章中盤からなので、作者は何とかして読者の好奇心を刺激するような何かを設けるべきであったと残念に思います。
彼女が主人公の唇に指を当てて子ども扱いするように言葉を遮るシーンにはドキッとしました。ここら辺から超然的な彼女が秘密のベールを脱いで、我々と同じ人間味や親しみのある存在に降り立ったように感じました。
そして第3章で明らかにされる「人の心、ではなくて他人の主観を共有できる超能力」の解説シーンは興奮して読みましたよ。こう、ミステリーの謎解きシーンのようにです。
というか面白いアイディアですね。読心術じゃなくて「主観」といった点が非常に哲学的な超能力となってまして、とても独創的であります。
この設定のおかげで、クオリアという哲学問題の解説がとてもスッキリとした形となっています。主人公の非超能力者(読者)とヒロインの超能力者(哲彼)の比較によって、クオリア問題を知らない哲学初心者でもスッと理解できますし、この問題を既に知っている非哲学初心者の方でも新鮮な気持ちで読むことが出来ます。
また、第4章にある超能力の細かい設定解説も知的好奇心が満たされるようで楽しかったです。そして主人公が彼女に対して神の孤独云々と心を悩ませてるというのに……

>「この能力があるとね、……カンニングし放題なのよ」

……ってあまりに俗なセリフに笑っちゃいましたよ。何てウィットに富んだ彼女なんでしょう! 正直、この頃には彼女の生き生きとした魅力にやられちゃってました。
それから第5章なんですが、彼女の説明が長々としているのを表現するためかギチギチに書かれていますけど、それでも改行ぐらいは欲しかったですね。けど主観超能力者が述べる意見というのは興味深いものでしで、それと比べたら瑣末な問題にすぎません。

>「読者さぁびす、よ」
>かつてここまでまどろっこしくて一般ウケしない読者サービスが存在しただろうか。

このメタ発言にも存外気に入っております。まさに創作ならではのギャグですもんね。それに……

>「え、何のことかしら?」
>他人の考えがわかる人間が何とぼけてるんだか……。
>「あら、それはちょっと酷くない? 差別よ。私のとぼけたいという自由意思を著しく踏みにじる思想だわ」
>「いいか、日本国憲法では思想・良心の自由というものがあってだな、いかなる思想・良心もそれが内心にとどまる限りは絶対的な自由が保障されている。というかとぼけたことは否定しないんだな」
>「私のことを考慮に入れない憲法なんて知らないわ」

……も含めて『お前らのボケは色々な意味で高次元すぎるんじゃー!』とツッコみたいです(笑)。……ハッ! 現実の私達が創作の世界に入ってのツッコミ。まさしく「アンチメタ発言」ですな(笑)。
照れ隠しやら心の中で「かわいい」宣言によるおちょくりは頬がにやけちゃいますし、「キターーー! エンダアアァ……!」「待ちなさい」にはもう『作者、ノリノリだな(笑)』といった感じでこれまた高度なツッコミを返したいです。
ラストも素敵に締めましたね。例え超能力が無くても「彼女の瞳」を信用するとか、自然体で行動したゆえのサプライズプレゼント、終業式で言い出せなかった謎の言葉、どれもピカイチです。

いやあ、本作にはとっても楽しませてもらいました。前半でとちってなければ、この小説はもっと輝いてましたよ。
というか原稿用紙四十三枚なんてボリュームじゃあ足りません! この構成やら物語展開なら、もっと話を膨らませられるでしょう。その余地は一杯ありそうですし。とはいえ具体的には全く思い付きませんがね(笑)。
でも「哲学的な彼女」企画で「もっと読みたい!」と思えたのは初めてです。いや、マジで。
何ていうか、前半は絵の具のチューブに入っているような単調な色でしか描かれていないんですが、真ん中から後半にかけてパレットの上で混ぜた絵の具を用いたことにより豊かな色彩を得られたって感じなんですよね。
「ホントもったいなかった」というのが全体的な感想です。この小説はもっと多くの人に読まれて然るべきでしょう。

最後に点数のほうですが、三十点とさせて頂きます。でも四十点に近い、三十五点と捕らえても良いですよ。
実際、四十点を与えるべきか軽く悩みましたもの。でも、あまりに出だしやボリュームが、ね(笑)。
それでは、この辺で失礼します。ありがとうございました!

136

pass
2011年01月01日(土)23時57分 ひや  作者レス
ぬゐさん、レスありがとうございます。

よくある読心術ってどこまでわかるものなのかがすごく曖昧なものが多い、と作者は思っていて、自分の思う読心術を考え深めた結果こうなりました。
何か感じるものがあったのならば幸いです。

ネタの折り込み方に関しては、作者が演劇経験者ということで(?)悪ふざけじみたものやはっちゃけたものが結構好きだったりします(作者がそういう演劇を好きだったからであり、演劇全般が必ずしもそういうものであるとは限らない、と一応断っておきます)。独特のノリや空気感もあるかもしれないのでこういうのが好きじゃない人にはちょっと抵抗がある方はいらっしゃるかもしれませんね。そういうときには軽ーく流してくださるとよいかと(笑)てきとーですみません。

では。

pass
2011年01月01日(土)02時47分 折伏ぬゐ 3zzXlUmpzE +30点
はじめましてひやさん。ぬゐというものです。作品読ませて頂きました。

クオリアと読心術は共存できない、という私の固定観念が見事にぶち破られました。というのも、思考が読めることと気持ちが理解できることは違うと思っていたのです。それらを一緒くたにし、曖昧な『何か』として受信するというのは、読心術を使うキャラとして斬新だと思いました(少なくとも私が知っているキャラ達は、読んだ思考が具体的すぎていて現実味に欠けてるやつらばかりでした)。

主人公の一人称が物語の大半を占めていますが、読みづらさはほとんどありませんでした。というか説明上手くてうらやましいです。特にクオリアの説明(色の好き嫌いの話)は思わずなるふぉ〜!と感嘆の声を上げてしまいそうになりました。

メタネタと、主人公が妙にハイテンションになった部分は現実に引き戻されましたけども(笑)

面白かったです。ではでは。
137

pass
合計 2人 60点


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