ピアニッシモ
<<一覧に戻る | 作者コメント | 感想・批評 | ページ最下部
 いつのまにか眠っていたみたいだ。部屋は真っ暗だったが天井の木目がいやにはっきり見えた。ちょうど僕の頭上を中心に、年輪が左右対称に広がっている。考えなければいけない事が山ほどあったが、いろいろな雑念がとめどなくあふれてきて、うまく考えることができない。僕はあきらめて何をするでもなく、年輪の描き出す抽象的な模様をぼおっと眺めていた。腰のまわりを重い霧のようなけだるさが取り巻いている。口の中からアルコールの匂いがして気分が悪くなった。水を飲みたかったが、冬眠からさめたばかりの熊のように布団の中で手足をもぞもぞと動かすので精一杯だった。僕は再び目を閉じてこの旅行の事を考えた。旅行と呼ぶにはあまりにも幼稚で無計画な、子供の家出のようなこの旅行のことを。
「おきてる?」と志乃が言った。まるで僕に話しかけていないみたいに、暗闇に向かって小さな声で言った。
「おきてる」と僕は答えた。いや、答えようとした。しかし喉がからからに乾いてうまく声が出なかった。やっと咳払いのような音を絞り出しただけだ。僕はそれ以上何も何も言わず、志乃が話すのを待った。しかし志乃は何も言わなかった。彼女は僕とは反対方向を向いて寝ている。あるいは聞き違いだったのかもしれないな、と僕は思った。彼女のとても小さい声なのか、とても大きな幻聴なのか判断がつかなかった。僕はふたたび天井に目を戻し、ロールシャッハテストのように年輪をいろいろなかたちに想像した。大きな蝶、二匹の熊、女性器、墨汁で書かれた川、中世の大剣。急激な喉の渇きを感じて、僕は掛け布団をはぎ、おきあがった。それは本当に大変な作業だった。脳の深い部分が鈍く痛んだ。僕は頭を押さえながら深く息を吸い込んだ。たばことアルコールと汗の匂いと、そしてうっすらと精液の匂いがする。備え付けの小さな冷蔵庫から水のペットボトルを取りだし、キャップを開けて水を飲んだ。火照った身体に冷たい水がしみ込んでいく。一口で3分の1を飲み、一呼吸おき、もう一口飲んだ。突然、志乃とのセックスが頭の中でフラッシュバックした。志乃の高い声と甘い香水の匂い、そして感触が一瞬だけとてもリアルに現れた。それは瞬きのようにほんの一瞬の事だったが、僕の身体は一気に興奮した。心臓が高鳴り、脇の下に汗がにじみ、股間が勃起した。しかしそれとは反対に僕の頭は急激に冷えていった。いったいなんでこの女と寝たんだろう?
「煙草吸ってもいい?」と志乃が聞いた。
 気がつくと志乃がおきていた。裸の身体にシーツをうまく巻き付けている。シーツごしにも彼女のスレンダーで熟成した体型を見て取ることができた。まるで31才という年齢が女性の一番美しい時期であるという仮説を自分の身体で実証しているみたいだ。
「もちろん」と僕は答えた。
 彼女はテーブルの上に置かれたピアニッシモのピンク色の箱を取り、たばこを一本取りだし、とんとんと、テーブルをたばこの吸い口で小さくノックした。この旅館の名前が書かれているマッチ箱からマッチを出し、片手だけで器用にマッチに火をつけた。暗闇にほのかな火がともり、たばこに火をつけ、灰皿にマッチを捨てた。そしていかにもおいしそうにたばこを吸った。枯れそうな花に栄養剤をかけるように、こぼさないように注意深く、煙を吸い込む。肺の隅々にまで煙がしみ込むと、まるで恋人との永遠の別れのような慎重さで煙をはいた。その一連の動作には優雅で隙のない完結された美があった。僕は彼女が煙草を吸っているのを眺めるのが好きだ。彼女はけっして美人ではない。幸薄そうで、いつも物憂げな表情をしている。しかし瞳が大きくて黒目が茶色がかったきれいな色をしている。背が高く、やせていて、胸が大きい。そのグラマラスな体型と彼女の色気のない顔とのアンバランスさは、見る人に肉感的な興奮を想起させる。とにかく彼女は僕が出会った人間の中で一番たばこをおいしそうに吸う人だった。
「水、飲む?」と僕は聞いてみた。
 彼女はありがとうと言って、ペットボトルを受け取り、口をつけた。そしてボトルを僕に返し、たばこの残りを吸った。
「今、何時かな?」と僕は無意味な質問をした。
 彼女はこの質問を無視した。何も聞こえなかったみたいにたばこを吸っている。僕は脱ぎ捨てられたジーパンのポケットから携帯電話を取りだして電源を入れ、液晶画面の時間を確認した。メールが16件着ていた。
「まだ11時15分か」と僕は無意味に時間を読み上げてみた。それがスイッチだった。
「あなたに話しておきたい事があるの」と彼女が言って、手に持っていたたばこを灰皿でもみ消した。まるで11時15分という時間が彼女の中にある特別なスイッチを押したみたいに、彼女はほとんど突然に語りはじめた。

 志乃と旅行することになったきっかけは、ちょっとした偶然だった。彼女は僕が働いている会社の上司だった。だったというか、もちろん今現在も彼女は僕の上司だ。しかし直属の上司というわけではなく、違う部署の上司だ。僕は外回りでほとんど社内にいなかったし、彼女はよほど特殊な場合を除いて、ほとんどの勤務時間を会社で過ごしていたから、顔を合わせることはすごく少なかった。クールでアンニュイな雰囲気のある、たばこの吸い方が綺麗な先輩。それが昨日まで持っていた志乃のイメージの全てだ。他に知っていることは何もない。入社してすぐにたばこをやめたから、たばこを綺麗に吸うということもかなりおぼろげな記憶だった。おはようございます、おはよう。眠いっす。がんばれ。これがここ最近で彼女と交わした一番親密な会話だった。昨日まではその程度の仲だったのだが、今日その関係は大きく変化した。
 ある9月の晴れた朝(つまり今朝のことだ)、僕は珍しく会社に向かっていた。出社するのが珍しいわけではなく、朝に出社するのが珍しかった。僕の業務はだいたいいつも昼過ぎからなんとなく始まり、深夜にピークを迎えるようなタイムスケジュールだったから、昼前までに出勤するのが僕の所属する部署のならわしだった。その日は月に一度の総会の日で、全社員が朝に顔を出さなければいけないことになっていた。とくに意義のある総会でもないのだが、意図的にサボタージュするほどの労力の持ち合わせがなかった。そのため僕は会社のある神谷町に向かうため、乗車率160パーセントの小田急線に乗って新宿に行き、新宿から乗車率140パーセントの山手線に乗って恵比寿駅についた。ここから乗車率120パーセントの日比谷線に乗り換えればようやく会社のある神谷町につく。僕は一日の業務へ使うための体力のほとんどを満員電車に削り取られ、ゾンビみたいにふらふらとJR恵比寿駅の改札を出た。
 そこで志乃を見つけた。彼女は恵比寿駅の電光掲示板を見上げていた。そこには日比谷線が事故のために止まっている、迷惑をかけて申し訳ない、復旧のめどは立っていない、とスクロールしていく文字が語っていた。多くの人がその電光掲示板を見上げて立ち止まっていた。ある人はくよくよして、またある人は憤慨してるようだった。彼女も多くの人と同じように電光掲示板を見上げていた。しかしそれは何かしら異様な光景だった。難しい間違い探しのように小さな違和感を感じる。しかしそれがなんなのかわからなかった。駅構内を行き交う多くの人々、電光掲示板を見上げる多くの人々、そして電光掲示板を見上げる彼女。10秒ほど見ていてようやく違和感の正体に気づいた。それは彼女の表情だった。彼女は見上げながらとても強いショックを受けていたのだ。それも日比谷線が不通になったなんてレベルの話ではなく、たとえば自分の故郷の惑星が突然消滅してしまった時に受けるようなレベルの表情に見えた。だからまわりの人達の中で彼女だけが異常に浮き出て見えた。
 僕は声をかけるべきかどうか迷った。会社での彼女の様子と今の様子はあまりにもかけ離れて、ほとんど別人みたいだった。しかしそれは間違いなく彼女だ。日比谷線の不通で遅刻をしそうな彼女、そしてもちろん僕も遅刻しそうだった。
「おはようございます」と僕はだいぶ迷ってから声をかけた。
 彼女は電光掲示板を見つめたまま、僕をちらりとも見ずに、「あら」とだけ言った。それが僕に対して「あら、偶然ね。おはよう」という意味だったのか「あら、日比谷線が止まっているのね」という意味だったのかわからなかった。
「しばらくは復旧しないみたいですね。もし良かったら一緒にタクシーで行きませんか?ワリカンで」と僕は提案した。
「タクシー?」と彼女は、まったく非現実的で完全な見当違いの言葉を耳にした時のように復唱した。
「ええ。そうです。タクシーです。恵比寿からなら1500円くらいで着くはずだし、何よりこのままじゃ遅刻しちゃいますから」
 彼女はそのことについて考えているようだった。
「遅刻……。そうね。じゃあ行きましょうか」と彼女は言った。
 僕と彼女はタクシーの順番を待つ間、何の会話もしなかった。ほとんど知らない女上司と一緒にタクシーを待つ時にする、ふさわしい会話が何も思いつかなかった。彼女は会社の総会のこと、遅刻のこと、タクシーのことのどれかを考えているようだった。もちろん故郷の星が何の前触れもなく突然消滅してしまったことについて考えているのかもしれなかった。
 タクシーは工場のベルトコンベアーのように次々に人々を詰め込み、どこかの目的地(おそらく日比谷線沿線)に向けて走り出していった。そして、僕達の前に並ぶのは頭が綺麗にはげ上がったサラリーマン一人だけなった。
「もうすぐですね」と僕は言った。
 しかし彼女は無視した。それは比喩でも暗喩でもない明確な無視だった。これから二人でタクシーという密室に閉じこめられることを考えると嫌気がさした。やはり総会をサボタージュするべきだったんだ。
 毛髪に多少の問題を抱えたサラリーマンがタクシーに乗り、発車すると、僕達の前に新しいタクシーが到着し、後部のドアが開いた。僕は「どうぞ」と言って彼女に先に乗るようにうながした。しかし彼女はそれにも反応しなかった。
 後ろに並んでいるタクシーが短くクラクションを鳴らした。
「どうかしました?」と僕は聞いた。しかし彼女は何のリアクションも示さなかった。フリーズをおこしたパソコンみたいに何の反応もない。彼女は止まってしまったのだ。なぜ突然彼女が固まってしまったのかさっぱりわからない。31才の女性は天気のいい朝に恵比寿駅で後輩とタクシー待っていると、必ずフーリーズを起こす仕様になっているのかもしれない。もしくは僕が彼女を致命的に傷つける何かをしてしまったのかもしれない。しかしもちろん僕には検討もつかなかった。彼女の再起動のスイッチがどこについているのかも、正しいスイッチの押し順もわからなかった。しかし一応、肩を揺すったり、話しかけてみたりした。だがもちろん何の反応もなかった。
 後ろに並んだタクシー数台がクラクションを鳴らし、背中に粘り着くような非難の視線を感じた。僕は一人でタクシーに乗り込むことにした。会社に遅刻するわけにはいかないし、朝の混雑にイライラしている人達を刺激することも避けたかった。彼女には悪いが、それほど親しい仲でもない。他にどんな選択肢があるだろうか。僕はタクシーに乗り込み「すいませんが、先に行きますね」と彼女に話しかけた。その時、突然彼女が僕の腕をつかんだ。彼女の手は力強く、ぐいぐいと僕をひっぱった。僕は「ごめんなさい。やっぱり降ります」と運転手に伝え、彼女とともにタクシー待ちの列を急いで離れた。タクシーには後ろに並んでいた初老のサラリーマンが素早く乗り込み、行き先を告げると、日比谷線不通の原因の全てが僕達にあるような目で、僕達を睨んだ。
 僕は彼女の手をひいて、できるだけその列を離れた。朝のやわらかい光が駅ビルに反射してきらきらと輝いていた。噴水からは水がのぼり、そのまわりを鳩がうろうろしていた。9月の朝はこんなにも美しいのに僕はいったい何をしているんだろうか。
 彼女をベンチに座らせると、僕も横に腰掛けた。
「どうしたんですか?」と僕は尋ねた。
 彼女は泣いていた。声を出さず、こぼれる涙を抑えようともせず、ただ涙があふれてくるのに任せていた。
「そこでコーヒーでも飲みませんか?ここはわりとまともなコーヒーを出すことで有名なんですよ。特に総会をサボった朝にはね」と僕は目の前にあるカフェを指しながら尋ねた。彼女は静かに首を振った。
 駅に入っていく無数の人々、駅から出てくる無数の人々。朝の駅はまるで動物の重要な臓器のように絶え間なく動き続けていた。僕は駅を見ながら途方に暮れてしまった。
「旅行しましょう」と彼女は言った。
 彼女はいつのまにか泣き止み、手にたばこの箱を持っていた。それを見て彼女がかなりのヘビースモーカーだったことと、彼女がすごくおいしそうにたばこを吸うということを思い出した。
 僕は彼女と旅行することで無くなってしまういくつかのことについて考えた。しかしすぐに考えるのをやめた。彼女はそういう損得勘定抜きで僕を誘っている。だったら僕もそれに答えなければいけないような気がした。それに週休1日でローマ帝国の奴隷のように働いている僕の耳には「旅行」という言葉は、あまりにも眩しすぎた。会社をサボって旅行。なんて甘美な響きなんだろう。
 僕達は恵比寿駅から山手線で新宿に戻り、新宿から小田急線で小田原に行き、小田原から東海道線で熱海に向かった。その間も、ほとんど会話らしい会話はなかった。僕達の間にはそもそも仕事でも私生活でも共通するものがほとんどなかったのだ。恵比寿駅で突然泣き出した理由も特に知りたいとは思わなかった。会社に電話しようと思ったが、彼女が携帯電話の電源を切っているのを見て、なんとなく僕も(なけなしの勇気を振り絞って)電源を切った。
 熱海駅に降りた頃には僕達はとてもお腹が空いていて、駅の近くの海鮮丼屋に入り、僕はアボガドマグロ丼、彼女は海鮮ちらし丼を食べた。それから熱海の街をぶらぶらと歩いて、海を見た。彼女は海でたばこを吸った。喫茶店に入り、コーヒーを飲んでから、旅館を探した。旅館が決まると(彼女が決めた)、旅館の温泉に入り、旅館の夕食を食べてビールを飲んだ。その旅館の部屋は、窓から隣の民家しか見えなかった。せっかく熱海まで来たんだから、けちけちせずに窓から海とか富士山とかを見せてくれればいいのに。酒を飲み終えた僕達はそれぞれの布団を敷いて寝た。それからセックスをした。濃密で激しいセックスだった。

 11時15分。「あなたに話しておきたい事があるの」と彼女は言った。目が徐々に暗闇に慣れてきて、いろんなものが良く見えるようになっていた。10畳ほどの部屋の真ん中には布団が2つ敷かれ、そのまわりには僕だか彼女だかの服が点在している。机の上にはビール瓶と吸い殻でいっぱいの灰皿。掛け軸には川を渡る二匹の鹿が描かれている。全ての窓は遮光カーテンで閉ざされていて、どうせ開けても景色みたいなものは何も見えないんだから、カーテンなんてずっと閉めたままだった。とにかく、ほとんど完全に近いくらいの暗闇が僕達を包んでいた。
「まずこれだけは知っておいて欲しんだけど、わたしはあなたのことが嫌いなの。とてもね。もちろん会社ではそのことを態度に示さなかったわ。だってそうでしょ?会社の人間関係ってとても微妙で、嫌いな人に嫌いだなんてはっきり言うことはできない。だから今まで言わなかったけど、わたしはあなたのことが嫌いなの。それはこれから先もずっと変わらないわ。私が私である限り永遠に変わらないものなの。それはあなたが努力をしたりだとか、あるいは何かの奇跡によって劇的に変化したりだとか、そういうことは絶対にないことなの。コギトのように原理的で絶対的なことなの。だから、つまり、勘違いをしないで欲しいの。今日が過ぎて明日になっても明後日になっても三日後になっても私たちの関係は今までどおり。つまり会えばあいさつをするし会わなければ連絡もしないし、気にもかけない。そんな関係のままってこと」
 彼女は一気にそれだけ言い切ると、こめかみを押さえながらため息をついた。それから「水をもらってもいいかしら?」と尋ねた。僕はペットボトル彼女に渡した。
 志乃がそんなに長く話すところを始めて見た。彼女は仕事の時は自分の感情を押し殺し、要点だけをまとめて手短に話した。余計なことや不明確なこと、自分の感情は今まで一言も聞いたことがなかった。
 女性から面と向かって嫌いと言われるのはいつ以来のことだっけな、と僕は考えた。しかし思い出せなかった。僕は天井を見上げた。暗闇の中に何か特別な塗料で書かれたようにはっきりと年輪が浮かんでいた。
「偶然なの」と彼女は言った。「男の人ならわかると思うけど、今日わたしはどうしてもセックスがしたかったの。それは宿命的といってもいいくらいにね。自分では押さえられないくらい猛烈にしたかったの。自分が自分じゃなくってしまうような、そんな感覚。体中がただれて、溶けてなくなってしまうような感じ。自分ではどうしようもないことなの。私は私を守るためにどうしてもしなくちゃいけなかった。わかるかしら?誰とでも良かった。あなた以外の人なら本当に誰でもよかったの。でも、恵比寿駅に現れたのはあなただった。よりにもよってあなたしかいなかった。あなた以外の他の誰かならどんなによかったかしら。でもそれが現実ってものね。もちろんあなたとのセックスは素晴らしかったわ。私はそこを否定したいんじゃないの。あなたと寝たという事実はなかったことにはならない。でもそれによって私は決定的に損なわれてしまったの。あなたの手によって。たしかに欲求は満たされたし、満足している。オーガズムにも何度か達したわ。でも私はそれ以上に大きなものを失ってしまったの。そしてそれはもう二度と戻ってこないわ。別に返して欲しいと言ってるわけじゃないの。ただ忘れてほしいの。これから先の人生で、特に私の前ではおくびにも出さないで欲しいの。そういうのって、わかってもらえるかしら?」
 僕は彼女の言ったことにについてしばらく考えた。彼女はピアニッシモの箱を開け、たばこにマッチで火をつけた。暗闇に一瞬明るい光りがともり、僕達の姿を照らし出した。闇という覆面が有無を言わさずはぎ取られ、僕と彼女の間にあった匿名性が失われた。彼女はマッチを消して灰皿に捨てると、愛しいものを吸うように煙を吸った。そしてため息と一緒に煙を出した。僕はそれを見ながら、まとまらない考えをそのまま口から出してみた。
「君の気持ちはいまいち理解できないけど、言おうとしていることはだいたいわかったよ。これから先、君の前で今日のことは言わないと誓うよ。絶対にね。おくびにも出さない。でも今日のことを忘れることはできないよ。たとえ偶然だとしても、僕は君のことを傷つけてしまったらしいからね。僕にはその理由はよくわからないけど。とにかく――」
「たとえ偶然だとしても?」と彼女は僕の話を途中で遮った。彼女は一口しか吸ってないピアニッシモを灰皿でもみ消した。
「じゃあなんで――」と彼女は言って、意識的に間を置いた。
 女性が意識的な間をつくって、話し始めた場合、それはだいたい、ほとんど悪い話だ。女性が間を置いた瞬間に話しをすり替えるか、なにか理由をつけて退席した方がいい。彼女の作った沈黙の重さに耐えながら、言葉の続きを待つなんてことは絶対にやめた方がいい。
「じゃあなんで避妊しなかったのよ」と彼女は言った。
 熱海の夜は静かで物音ひとつ聞こえない。あたりを包む暗闇とともに耳鳴りがした。たばこが吸いたかった。そういえばなんで禁煙なんか始めたんだろう。もう理由も覚えていなかった。濃くて重たい煙で吐き気がするくらい、肺を満たしたかった。しかしここには志乃のピアニッシモしかなかった。しかたなく、たばこのかわりに鼻から闇をおもいっきり吸い込んだ。闇にはたばこと汗とアルコールとほんのすこし精液の匂いがした。
「どうせ何も考えてないんでしょ。そうやって生きてて、あなたは自分の子供が将来『パパ、僕はどうして生まれたの?』って聞いてきた時に何て答えるつもりなのかしら。そもそもあなたって人は――」
 突然、気圧差で耳が遠くなる時のように、耳の奥でぶつんという鈍い音がした。そして本当に周囲の音が全て小さくなった。暗闇の中で音が小さくなると自分の存在が薄くなったような気がした。志乃が何かを喋っているが、テレビのボリュームを小さくしたようにほとんど何を言っているか聞き取れない。どうせまたろくでもない、意味不明なことを喋っているのだ。
 僕は志乃の鼻を殴った。本棚の本を元の位置に戻すときみたいに、ごく自然に当たり前に殴った。自分でもその行為があまりにも自然にできたので驚いたぐらいだ。女を殴ったのは初めてだった。志乃は黒い鼻血を出しながら咳き込んでいる。巻き付けていたシーツがはだけて、大きな形のいい乳房があらわになった。裸のまま鼻血を流している志乃を見て僕は不思議と心が安らいだ。美しい。志乃は何も言わなかった。悲鳴も文句も言わず鼻を押さえている。鼻血は止まることなく、どんどん出てくる。真っ白なシーツに黒いしみが増えていく。僕はそれをただ黙ってじっと見ていた。
 そのうち僕はピアニッシモを勝手に一本抜き取り、マッチを擦って火をつけた。部屋が一瞬明るくなった。そこには31才の幸薄そうな女が、素っ裸で、真っ赤な血を流しながら、うなだれていた。マッチの火をピアニッシモに移すと、僕は思いきり煙を吸い込んだ。煙は軽くなめらかで、全然満足できるものではなかった。僕は不機嫌に煙を吐き出しながら、マッチを消した。周囲を再び闇が包んだ。
鯖の味噌煮 

2010年12月31日(金)00時54分 公開
■この作品の著作権は鯖の味噌煮さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
生まれて初めて小説(らしきもの)を書きました。
「死ね」「二度と書くな」「クソ野郎」などの暖かいご意見、ご感想を心よりお待ちしています。
 もしも最後まで読んだなんて奇特な方がいらっしゃれば、ぜひともマイナス30の評価をつけて、僕のプライドをへし折り、僕に就職活動をさせて下さい。おねがいします。


この作品の感想をお寄せください。

2011年01月01日(土)13時08分 鯖の味噌煮  作者レス
>エキセントリクウ様
そうなんです。村上春樹、大好きなんです。
タランティーノ監督がインタビューで「あなたは深作監督の表現をパクりましたね?」
と、聞かれて、「そうだよ!僕は彼が大好きだからね!」と、答えたことがあります。
もちろん僕の小説はそんなレベルには達していませんが、そういう事を堂々と言えるくらいの作品をいつかは作っていきたいです。
そしてこれは本当に処女作です。
今まではmixiの日記を長々と書いたりしてました。
なので小説のかたちをしたフィクションを書くのは本当に初めてです。
お褒めのお言葉、胸に刻み込み、これからも精進したい所存でございます。
本当にありがとうございました。

pass
2011年01月01日(土)12時47分 鯖の味噌煮  作者レス
>牛髑髏タウン様
作者コメントで思わず読んでしまったということで、しめしめ。げへへ。
志乃さんの年齢は、僕が実際に大好きな31才という年齢にしてみました。
簡単な感想でもなんでも、感想がある、ということ自体、本当にとてもうれしいです。
しかも、小説として良かったなんて書かれた日には、もう、ちょっと発狂しそうです。
ご感想本当にありがとうございます。

pass
2011年01月01日(土)12時38分 鯖の味噌煮  作者レス
>いも様
ご評価ありがとうございます。
そうですよね。この企画ではアウトの匂いがしますよね。
最初は萌え小説を書くつもりだったんですが、何がどうなってこうなってしまったのやら……。

pass
2010年12月31日(金)09時00分 エキセントリクウ  +20点
ええと、村上春樹、好きですね?

>生まれて初めて小説(らしきもの)を書きました。

今までも書いてはいたけど、ちゃんと形になったのは今回が初めて、という意味だと理解します。
そうではなく本当に生まれて初めてなら、すごいと思います。

ディテールがしっかり書き込まれてて、いいですね。

就職活動、大変だと思いますが、頑張ってください。
126

pass
2010年12月31日(金)04時38分 牛髑髏タウン DN9w0wBvqc +20点
初めまして。

作者コメントが面白かったので(失礼)、思わず読んでしまいました。

うまいですね。無駄が無くて綺麗です。志乃さんと主人公がとてもリアルですし。志乃さん、私の頭の中ではもうちょっと年齢は上のイメージでした。

なんか簡単な感想ですみません。
可愛いというのとはちょっと違いましたが、小説として良かったのは確かです。

132

pass
2010年12月31日(金)03時17分 いも M8vT5jA.U. 0点
ハハ、こういう雰囲気の小説、好きですよ。
この企画ではアウトかもしれませんが。

123

pass
合計 3人 40点


お名前
E-Mail  公開しない公開する
↑作者レスをする場合は、作品投稿時のメールアドレスを入力して下さい。
−− メッセージ −−
作者レス
評価する
 PASSWORD(必須)  トリップ 

<<一覧に戻る || ページ最上部へ
作品の編集・削除
PASSWORD